弁名 / 性情才
仁齋先生曰。於心則曰存曰盡。於性則曰養曰忍。志則曰持曰尙。若情與才。皆不必用工夫。先儒有約情之語。非也。是其人專守孟子。而不知先王禮樂之敎。故以爲情不理可也。觀其論顏子不遷怒而曰。舜殛四凶。猶當有餘怒。豈不然乎。夫情者不涉思慮者也。樂之爲敎。無義理之可言。無思慮之可用。故理性情以樂。是先王之敎之術也。豈理學者流所能知哉。伊川先生所謂約情而適中。其言豈非哉。然亦不知所以約之之方。而欲就情上用功則過矣。
新字:仁斎先生曰。於心則曰存曰尽。於性則曰養曰忍。志則曰持曰尚。若情与才。皆不必用工夫。先儒有約情之語。非也。是其人専守孟子。而不知先王礼楽之教。故以為情不理可也。観其論顔子不遷怒而曰。舜殛四凶。猶当有余怒。豈不然乎。夫情者不渉思慮者也。楽之為教。無義理之可言。無思慮之可用。故理性情以楽。是先王之教之術也。豈理学者流所能知哉。伊川先生所謂約情而適中。其言豈非哉。然亦不知所以約之之方。而欲就情上用功則過矣。
書き下し
仁斎先生曰く、「心に於いては則ち存と曰ひ尽と曰ひ、性に於いては則ち養と曰ひ忍と曰ひ、志は則ち持と曰ひ尚と曰ふ。情と才との若きは、皆必ずしも工夫を用ひず。先儒情を約するの語有るは、非なり」と。是れ其の人専ら孟子を守りて、先王礼楽の教を知らず。故に以て情は理めずして可なりと為す。其の顔子の怒りを遷さざるを論じて、「舜四凶を殛す、猶ほ当に余怒有るべし」と曰ふを観れば、豈に然らずや。夫れ情は思慮に渉らざる者なり。楽の教為る、義理の言ふべき無く、思慮の用ふべき無し。故に性情を理むるに楽を以てす。是れ先王の教の術なり。豈に理学者流の能く知る所ならんや。伊川先生の所謂情を約して中に適ふ、其の言豈に非ならんや。然れども亦た之を約するの方を知らずして、情上に就きて功を用ひんと欲するは則ち過てり。
現代語訳
仁斎先生は「心については存(保つ)・尽(尽くす)と言い、性については養(養う)・忍(耐える)と言い、志については持(保つ)・尚(高くする)と言う。情と才については、どちらも工夫を用いる必要はない。先儒に『情を約する』という言葉があるのは誤りである」と言った。これは仁斎が孟子だけを守って、先王の礼楽の教えを知らないからであり、それで情は整えなくてよいとしたのである。顔回が怒りを他に移さなかったことを論じて「舜が四凶を罰したときも、なお怒りが残っていたはずだ」と言うのを見れば、そうではないか。そもそも情は思慮に関わらないものである。楽という教えは、説くべき理屈も用いるべき思慮もない。だから性情を整えるのに楽を用いる。これが先王の教えの方法である。理学者たちにわかることではない。程伊川の「情を約して中に適わせる」という言葉がどうして誤りであろうか。しかし、それを約する方法を知らずに、情そのものに直接工夫を加えようとするのは行き過ぎである。
解説
この章句が説くこと
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