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弁名 / 性情才

凡人之性皆有所欲。而所欲或以其性殊。故七情之目。以欲爲主。順其欲則喜樂愛。逆其欲則怒惡哀懼。是性各有所欲者見於情焉。故如曰情欲。曰天下之同情。皆以所欲言之。性各有所殊者亦見於情焉。故如曰萬物之情。曰物之不齊。物之情也。皆以性所殊言之。又如孟子曰。是豈人之情也哉。直以爲性。又如曰訟情。曰軍情。曰用其情。皆以其不匿內實言之。所謂訓實是也。亦以情莫有所矯飾故轉用耳。且訟情軍情。亦各有一種態度。而得之則瞭然者。亦如情以性殊。故有是言焉。自宋儒以性爲理。而字義遂晦。性情之所以相屬者。不得其解。至於仁齋先生而後始明矣。

新字:凡人之性皆有所欲。而所欲或以其性殊。故七情之目。以欲為主。順其欲則喜楽愛。逆其欲則怒悪哀懼。是性各有所欲者見於情焉。故如曰情欲。曰天下之同情。皆以所欲言之。性各有所殊者亦見於情焉。故如曰万物之情。曰物之不斉。物之情也。皆以性所殊言之。又如孟子曰。是豈人之情也哉。直以為性。又如曰訟情。曰軍情。曰用其情。皆以其不匿内実言之。所謂訓実是也。亦以情莫有所矯飾故転用耳。且訟情軍情。亦各有一種態度。而得之則瞭然者。亦如情以性殊。故有是言焉。自宋儒以性為理。而字義遂晦。性情之所以相属者。不得其解。至於仁斎先生而後始明矣。

書き下し

凡そ人の性皆欲する所有り、而して欲する所或いは其の性を以て殊なり。故に七情の目、欲を以て主と為す。其の欲に順へば則ち喜楽愛、其の欲に逆へば則ち怒悪哀懼。是れ性各々欲する所有る者、情に見はるるなり。故に情欲と曰ひ、天下の同情と曰ふが如きは、皆欲する所を以て之を言ふ。性各々殊なる所有る者も亦た情に見はる。故に万物の情と曰ひ、物の斉しからざるは物の情なりと曰ふが如きは、皆性の殊なる所を以て之を言ふ。又た孟子の「是れ豈に人の情ならんや」と曰ふが如きは、直ちに以て性と為す。又た訟情と曰ひ、軍情と曰ひ、其の情を用ふと曰ふが如きは、皆其の内実を匿さざるを以て之を言ふ。所謂実と訓ずる是れなり。亦た情の矯飾する所有る莫きを以ての故に転用するのみ。且つ訟情・軍情も、亦た各々一種の態度有りて、之を得れば則ち瞭然たる者、亦た情の性を以て殊なるが如し。故に是の言有り。宋儒性を以て理と為してより、字義遂に晦し。性情の相属する所以、其の解を得ず。仁斎先生に至りて而る後始めて明らかなり。

現代語訳

およそ人の性にはみな欲するところがあり、欲するものは性によって異なる。だから七情の項目は欲を中心とする。欲に従えば喜・楽・愛となり、欲に逆らえば怒・悪・哀・懼となる。これは、性にそれぞれ欲するところがあることが情に現れたものである。だから「情欲」とか「天下の同じ情」とかいうのは、みな欲するものについて言ったものだ。性にそれぞれ違いがあることも情に現れる。だから「万物の情」とか「物がそろわないのは物の情である」とかいうのは、みな性の違いについて言ったものだ。また孟子の「これがどうして人の情であろうか」は、情をそのまま性としている。また「訟情(訴訟の実情)」「軍情(軍の実情)」「その情を用いる」などは、みな内実を隠さないことから言ったもので、いわゆる「実」と訓ずる用法である。これも情が取り繕えないことから転用したにすぎない。しかも訟情・軍情にもそれぞれ独特のありさまがあり、それをつかめばはっきりわかるというのも、情が性によって異なるのと同じである。だからこういう言い方がある。宋儒が性を理としてから、字の意味は暗くなり、性と情がつながる理由がわからなくなった。仁斎先生に至ってはじめて明らかになったのである。

解説

徂徠は「情」の用例を古典から集め、欲の現れ、物ごとの違い、隠せない実情という三つの意味の広がりを示す。どれも、情は取り繕えず、性の違いがそのまま出るという一点から説明できる。字義を用例から定めるのが『辨名』の方法で、性を理とした宋儒によって字義が見えなくなったと批判し、仁斎の功を認めている。現場の「実情」をつかむとは、取り繕われた報告ではなく、それぞれの持ち場に固有のありさまを知ることだ。情報とはもともと、情の報せなのである。

この章句が説くこと

情性欲実情用例仁斎

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