弁名 / 性情才
情者。喜怒哀樂之心。不待思慮而發者。各以性殊也。七情之目。醫書曰。喜怒憂思悲驚恐。此就其發於五藏者立之名。儒書曰。喜怒哀懼愛惡欲。或止言喜怒哀樂四者。此皆以好惡兩端言之。大氏心情之分。以其所思慮者爲心。以不涉思慮者爲情。以七者之發不關乎性爲心。關乎性者爲情。凡人之性皆有所欲。而涉思慮則或能忍其性。不涉思慮則任其性所欲。故心能有所矯飾。而情莫有所矯飾。是心情之說也。
新字:情者。喜怒哀楽之心。不待思慮而発者。各以性殊也。七情之目。医書曰。喜怒憂思悲驚恐。此就其発於五蔵者立之名。儒書曰。喜怒哀懼愛悪欲。或止言喜怒哀楽四者。此皆以好悪両端言之。大氏心情之分。以其所思慮者為心。以不渉思慮者為情。以七者之発不関乎性為心。関乎性者為情。凡人之性皆有所欲。而渉思慮則或能忍其性。不渉思慮則任其性所欲。故心能有所矯飾。而情莫有所矯飾。是心情之説也。
書き下し
情は、喜怒哀楽の心、思慮を待たずして発する者、各々性を以て殊なるなり。七情の目、医書に曰く、喜怒憂思悲驚恐と。此れ其の五蔵に発する者に就きて之が名を立つ。儒書に曰く、喜怒哀懼愛悪欲と。或いは止だ喜怒哀楽の四者を言ふ。此れ皆好悪の両端を以て之を言ふ。大氐心情の分は、其の思慮する所の者を以て心と為し、思慮に渉らざる者を以て情と為す。七者の発、性に関はらざるを以て心と為し、性に関はる者を情と為す。凡そ人の性皆欲する所有り。而して思慮に渉れば則ち或いは能く其の性を忍び、思慮に渉らざれば則ち其の性の欲する所に任す。故に心は能く矯飾する所有り、而して情は矯飾する所有る莫し。是れ心情の説なり。
現代語訳
情とは、喜怒哀楽の心のうち、思慮を待たずに発するもので、それぞれ性によって異なる。七情の項目は、医書では喜・怒・憂・思・悲・驚・恐とする。これは五臓から発するものについて名を立てたものである。儒書では喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲とし、あるいは喜怒哀楽の四つだけを言う。これらはみな好むと憎むの両端から言ったものである。おおよそ心と情の区別は、思慮するものを心とし、思慮に関わらないものを情とする。七つの感情の発するのが性に関わらないものを心とし、性に関わるものを情とする。およそ人の性にはみな欲するところがある。思慮に関われば、性を抑えることもできるが、思慮に関わらなければ性の欲するままに任せる。だから心は取り繕うことができるが、情は取り繕うことができない。これが心と情の説である。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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