弁名 / 性情才
樂記曰。人生而靜。天之性也。宋儒本然復性之說本諸。石梁王氏。及仁齋先生。皆以爲老氏之意。而非孔門之言也。蓋樂者理性情之道也。先王之敎。能養人性以成其德者。莫尙焉。且其爲敎。無義理之可言。無思慮之可用。不識不知。順帝之則。故性情之說。古唯詩與樂有之。喜怒哀樂。亦人之所必有者也。然其動之偏勝而不中節。則必至傷中和之氣。以失其恒性。德之所以難成也。
新字:楽記曰。人生而静。天之性也。宋儒本然復性之説本諸。石梁王氏。及仁斎先生。皆以為老氏之意。而非孔門之言也。蓋楽者理性情之道也。先王之教。能養人性以成其徳者。莫尚焉。且其為教。無義理之可言。無思慮之可用。不識不知。順帝之則。故性情之説。古唯詩与楽有之。喜怒哀楽。亦人之所必有者也。然其動之偏勝而不中節。則必至傷中和之気。以失其恒性。徳之所以難成也。
書き下し
楽記に曰く、「人生まれて静かなるは、天の性なり」と。宋儒の本然復性の説、諸に本づく。石梁王氏、及び仁斎先生、皆以て老氏の意にして、孔門の言に非ずと為す。蓋し楽は性情を理むるの道なり。先王の教、能く人の性を養ひて以て其の徳を成す者、焉より尚きは莫し。且つ其の教為る、義理の言ふべき無く、思慮の用ふべき無く、識らず知らず、帝の則に順ふ。故に性情の説、古は唯だ詩と楽とのみ之れ有り。喜怒哀楽も、亦た人の必ず有する所の者なり。然れども其の動の偏勝して節に中らざれば、則ち必ず中和の気を傷ふに至り、以て其の恒性を失ふ。徳の成り難き所以なり。
現代語訳
『礼記』楽記に「人が生まれて静かであるのは、天から受けた性である」とある。宋儒の「本然の性」「性に復る」という説はこれにもとづく。石梁の王氏や仁斎先生は、みなこれを老子の考えであって孔子の門下の言葉ではないとした。思うに、楽(音楽)は性情を整える道である。先王の教えのうち、人の性を養って徳を成すものとして、これにまさるものはない。しかも楽という教えは、説くべき理屈もなく、用いるべき思慮もなく、知らず知らずのうちに天帝の法則に従わせる。だから性情についての説は、古くは『詩経』と楽にだけあった。喜怒哀楽も、人に必ずあるものである。しかしその動きが一方に偏って節度に合わなければ、必ず中和の気を損ない、ふだんの性を失うに至る。徳が成りにくいのはそのためである。
解説
この章句が説くこと
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