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弁名 / 性情才

性者。生之質也。宋儒所謂氣質者是也。其謂性有本然有氣質者。蓋爲學問故設焉。亦誤讀孟子。而謂人性皆不與聖人異。其所異者氣質耳。遂欲變化氣質以至聖人若使唯本然而無氣質。則人人聖人矣。何用學問。又若使唯氣質而無本然之性。則雖學無益。何用學問。是宋儒所以立本然氣質之性之意也。然胚胎之初。氣質已具。則其所謂本然之性者。唯可屬之天。而不可屬於人也。又以爲理莫有所局。雖氣質所局。實有所不局者存。則禽獸與人何擇也。故又歸諸正通偏塞之說。而本然之說終不立焉。可謂妄說已。

新字:性者。生之質也。宋儒所謂気質者是也。其謂性有本然有気質者。蓋為学問故設焉。亦誤読孟子。而謂人性皆不与聖人異。其所異者気質耳。遂欲変化気質以至聖人若使唯本然而無気質。則人人聖人矣。何用学問。又若使唯気質而無本然之性。則雖学無益。何用学問。是宋儒所以立本然気質之性之意也。然胚胎之初。気質已具。則其所謂本然之性者。唯可属之天。而不可属於人也。又以為理莫有所局。雖気質所局。実有所不局者存。則禽獣与人何択也。故又帰諸正通偏塞之説。而本然之説終不立焉。可謂妄説已。

書き下し

性とは、生の質なり。宋儒の所謂気質なる者是れなり。其の性に本然有り気質有りと謂ふ者は、蓋し学問の為の故に設く。亦た孟子を誤読して、人の性は皆聖人と異ならず、其の異なる所の者は気質のみと謂ふ。遂に気質を変化して以て聖人に至らんと欲す。若し唯だ本然のみにして気質無からしめば、則ち人人聖人なり。何ぞ学問を用ひん。又た若し唯だ気質のみにして本然の性無からしめば、則ち学ぶと雖も益無し。何ぞ学問を用ひん。是れ宋儒の本然気質の性を立つる所以の意なり。然れども胚胎の初め、気質已に具はれば、則ち其の所謂本然の性なる者は、唯だ之を天に属すべくして、人に属すべからざるなり。又た以為へらく、理は局する所有る莫し。気質の局する所と雖も、実に局せざる所の者存すと。則ち禽獣と人と何ぞ択ばん。故に又た諸を正通偏塞の説に帰して、本然の説終に立たず。妄説と謂ふべきのみ。

現代語訳

「性」とは、生まれつきの質である。宋儒のいう「気質」がそれである。宋儒が性に「本然の性」と「気質の性」があるとしたのは、学問のために設けたのである。これも孟子を読み誤って、人の性はみな聖人と異ならず、異なるのは気質だけだと考え、そこで気質を変化させて聖人に至ろうとした。もし本然の性だけで気質がなければ、人はみな聖人であり、学問など要らない。またもし気質だけで本然の性がなければ、学んでも益がなく、やはり学問は要らない。これが宋儒が本然・気質の性を立てた意図である。しかし母胎に宿った初めから気質がすでに備わっているのだから、彼らのいう本然の性は、天に属させるしかなく、人に属させることはできない。また彼らは、理は何ものにも限られず、気質に限られていても、実は限られないものが存在すると考える。そうなると鳥獣と人とで何の違いがあろうか。そこでさらに「(人は気が)正しく通じ、(鳥獣は)偏り塞がっている」という説に逃げ込み、本然の説は結局成り立たない。でたらめな説と言うべきである。

解説

性情才の章の冒頭で、徂徠は性を「生の質」、つまり生まれつきの気質そのものと定める。朱子学は性を本然と気質に分け、気質を変化させれば誰でも聖人に至れるとしたが、それは学問の必要を説明するために作られた理屈だと見抜く。胚胎のときから気質は具わっており、本然の性は人に属するものとは言えない。理論の辻褄合わせのために概念を増やしていくと、ついには説明が破綻する。人材育成でも、誰もが理想の人材に変われるという前提から出発すると、一人ひとりの持ち味という現実を見失ってしまうのである。

この章句が説くこと

性気質本然朱子学学問聖人

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