弁名 / 天命帝鬼神
鬼神之德。中庸以誠言之。左傳以聰明正直言之。其言雖殊。其義一矣。皆謂其無思慮勉强之心也。天地無思慮勉强之心。故必待聖人參贊而後天地位萬物育。鬼神無思慮勉强之心。故必待聖人爲之禮立之極。而後游魂不爲變。
新字:鬼神之徳。中庸以誠言之。左伝以聰明正直言之。其言雖殊。其義一矣。皆謂其無思慮勉強之心也。天地無思慮勉強之心。故必待聖人参賛而後天地位万物育。鬼神無思慮勉強之心。故必待聖人為之礼立之極。而後游魂不為変。
書き下し
鬼神の徳は、中庸は誠を以て之を言ひ、左伝は聡明正直を以て之を言ふ。其の言殊なりと雖も、其の義は一なり。皆其の思慮勉強の心無きを謂ふなり。天地は思慮勉強の心無し。故に必ず聖人の参賛を待ちて、而る後に天地位し万物育す。鬼神は思慮勉強の心無し。故に必ず聖人の之が礼を為し之が極を立つるを待ちて、而る後に游魂変を為さず。
現代語訳
鬼神の徳について、『中庸』は「誠」と言い、『左伝』は「聡明正直」と言う。言葉は違うが、意味は同じである。どちらも鬼神には思い悩んだり無理に努めたりする心がないことをいう。天地には思慮や努力の心がない。だから必ず聖人が参与して助けることで、はじめて天地は定まり万物は育つ。鬼神にも思慮や努力の心がない。だから必ず聖人が礼を作り、基準を立てることで、はじめてさまよう魂が祟りをなさなくなる。
解説
中庸の「誠」と左伝の「聡明正直」は、言葉は違っても、鬼神に思慮や努力の心がないことを言う点で同じだと徂徠は読む。天地も鬼神も自ら工夫して秩序を作るわけではない。だから聖人が参与し、礼を作り基準を立てて、はじめて万物は育ち、さまよう魂は鎮まる。自然のままに任せておけば整うのではなく、人の手による制度が秩序を生むという徂徠の作為の思想が端的に表れている。組織も放っておけば自然に良くなるわけではない。誰かが仕組みと基準を立てて初めて、人々の力が実を結ぶのである。
この章句が説くこと
鬼神誠聖人礼作為秩序
関連する章句
-
『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
-
『弁名』誠誠は、中心より発して、思慮勉強を待たざる者を謂ふなり。纔かに誠ならんと欲すれば則ち思慮勉強に渉る。故に誠は得て為すべからざる者なり。故に先王・孔子の教へは、忠信有りて誠無し。其の以て教へと為すべからざるを以てなり。其の伝記に見ゆる者は、曲礼に曰く、「禱祠祭祀、鬼神に供給するは、礼に非ざれば誠ならず荘ならず」と。是れ誠は天地の徳なり、鬼神の徳なり。故に禱祠祭祀には誠を貴ぶ。然れども誠は得て為すべからざる者なり。礼に由りて之を行へば、自然に誠至る。故に爾云ふ。
-
『武士道』第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
-
『武士道』第七章 至誠信實・虚言を吐くと礼を失すると固より神明に誓ひ、刀に盟ふの事ありたりと雖、未だ彼の欧米に於けるが如く、其起証の流れて妄語となり、又た神を侮るの放言となりたるの例を見ず。時としては又た実に血誓血判をなすことありしと雖、此行為に関しては、読者は予の説明を俟たずして、試みにゲーテの『ファウスト』に、血は異様の液体なりと云ひ、血を以て誓ふを読まば、即ち自から釈然として明かなるものあらん。近時、米国一文士の説を為すことあり。曰く、普通の日本人に問ふに、虚言を吐くと、礼を失すると、いづれか可なるやを以てせば、彼は言下に答へて『虚言を吐く』を可とすと云ふべしと。けだし此説の言責者たるピーリー博士は、是非相半ばせるものと云ふべし。ただに尋常一般の日本人のみならず、又た士人と雖、なお且つ此れと等しき答をなすなるべし。
-
『五常訓』巻之四・礼倹とは其心真実にして、かざり偽無きを云ふ。是礼の本なり。如此倹にして真実にかざり無ければ、本たちて、末おのづから生ず。又礼の内にて、取わき父母兄弟などの死せる時、喪に居るは、尤せつなる時にて、つつしんで心を用ふべき事なり。喪に居るに、其死をいたみ哀むは、喪の礼の本なり。しかるに外の飾さかんにして、作法はそなはれども、心に哀の誠なきは、是本なきなり。かく有らんより、唯いたみ哀あつくして、外の法はおろそかならんこそ優るべけれ。凡礼は、先心の誠実なるを本とすれば、本なくして、末のみ修らんより、しかじ、本立ちて末おろそかなるには。是本末そなはらずして、偏なれども、外のかざりのみ多くして、内心に本とすべき誠なきには、遥かにまされり。
-
『家道訓』巻之六・用財下一貧しき人は、貨財を以て礼とせず。老いたる人の、筋力を以て礼とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、礼の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて礼なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の礼なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る