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武士道 / 第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる

禮若し誠を缺かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『禮に過ぐれば、語となる』と。又た菅公が誠の歌に、心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん。とあるは、ポロニヤスが、自から已に誠なるべし、さらば人に誠無き能はず。との訓言に比するに義太だ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を歸し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠者、物之終始不誠無物。是故君子誠之爲貴』と曰ひ、且つ流麗快達の辯を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動せずして變じ、無爲にして成すと說く。其旨の深玄にして神祕の妙域に聘するより人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトー學說の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。

新字:礼若し誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば、語となる』と。又た菅公が誠の歌に、心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん。とあるは、ポロニヤスが、自から已に誠なるべし、さらば人に誠無き能はず。との訓言に比するに義太だ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠者、物之終始不誠無物。是故君子誠之為貴』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動せずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に聘するより人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトー学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。

書き下し

礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。

現代語訳

礼が誠を欠けば、それは冗談になり、芝居になります。伊達政宗は、礼に過ぎれば諂いになる、と言いました。また菅原道真の誠の歌に、心さえ誠の道にかなっていれば、祈らなくても神は守ってくださるだろう、とあるのは、ポローニアスの、自分自身に誠であれ、そうすれば人に対して誠でないことはできない、という教えに比べて、意味がずっと深いものです。子思は『中庸』において誠を崇め、これに超自然の力を帰し、ほとんどその力を神と同一視しました。誠は物の始めであり終わりである。誠でなければ物は存在しない。だから君子は誠であることを貴いとする、と言い、さらに流れるような弁舌で、至誠は止むことなく、遠く広く厚く、また高く明らかで、動かさずして変え、何もせずに成し遂げる、と説きます。その趣旨が深く神秘の域に達するので、人は誠という字を分解すれば、言と、完成の意味を持つ成の二字から成るとして、これを新プラトン主義のロゴス、すなわち道に比べようとすることがあります。

解説

第七章が誠から始まります。礼が誠を欠けば芝居になる、という一行が前章の答えです。伊達政宗の、礼に過ぎれば諂いとなる、という言葉も同じ趣旨。そして中庸の誠が引かれます。誠でなければ物は存在しない、という強い言い方で、誠は道徳ではなく存在の条件として置かれています。誠という字が言と成から成るという解字も紹介され、言ったことが成ることが誠だという理解が示されます。

この章句が説くこと

中庸諂い言行

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