家道訓 / 巻之六・用財下
一貧しき人は、貨財を以て禮とせず。老いたる人の、筋力を以て禮とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、禮の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて禮なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の禮なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
新字:一貧しき人は、貨財を以て礼とせず。老いたる人の、筋力を以て礼とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、礼の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて礼なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の礼なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
書き下し
一貧しき人は、貨財を以て礼とせず。老いたる人の、筋力を以て礼とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、礼の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて礼なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の礼なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
現代語訳
貧しい人は、財貨を礼としません。老いた人が筋力を礼としないのと同じです。もし貧しくない人ならば、贈り物によってその誠を表します。これは昔の人の行ったところで、礼の道です。父母・兄弟・親戚・友人、あるいは恩を受けた人には、贈り物によってその誠を表し、その情を通わせなさい。昔の人は、貧しい者は束脩(干し肉の束)を贈り、富んだ者は玉や絹を贈りました。けちな人は財を惜しんで礼がありません。贈るべき人に贈らない、このけちさは、不仁で誠がないことによるのです。なぜなら、自分の子には多く財を費やしても惜しまないからです。これは愛情が深いからです。そうであれば、財を惜しんで贈答の礼がないのは、不仁から起こるのです。まして贈り物にさほど財の出費はないのに。
解説
この章句が説くこと
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