弁名 / 天命帝鬼神
聖人功德如天。故配之天。群下則不配已。孔子曰。敬鬼神而遠之。祭雖妻拜之。凡事死如事生。語其心。而禮則殊者。皆以其歸諸天也。惟天也不可知矣。惟鬼神也不可知矣。詩曰。神之格思。不可度思。矧可射思。傳曰。於彼乎。於此乎。禮或求諸陽。或求諸陰。皆謂其不可知也。敬之至矣。天邪鬼邪。一邪二邪。是未可知也。故聖人制禮。雖曰歸諸天。亦未敢一之。敬之至矣。敎之術也。
新字:聖人功徳如天。故配之天。群下則不配已。孔子曰。敬鬼神而遠之。祭雖妻拝之。凡事死如事生。語其心。而礼則殊者。皆以其帰諸天也。惟天也不可知矣。惟鬼神也不可知矣。詩曰。神之格思。不可度思。矧可射思。伝曰。於彼乎。於此乎。礼或求諸陽。或求諸陰。皆謂其不可知也。敬之至矣。天邪鬼邪。一邪二邪。是未可知也。故聖人制礼。雖曰帰諸天。亦未敢一之。敬之至矣。教之術也。
書き下し
聖人は功徳天の如し。故に之を天に配す。群下は則ち配せざるのみ。孔子曰く、「鬼神を敬して之を遠ざく」と。祭には妻と雖も拝す。凡そ死に事ふること生に事ふるが如しとは、其の心を語る。而して礼は則ち殊なる者は、皆其の諸を天に帰するを以てなり。惟れ天は知るべからず。惟れ鬼神は知るべからず。詩に曰く、「神の格る、度るべからず。矧んや射ふべけんや」と。伝に曰く、「彼に於てか、此に於てか」と。礼に或いは諸を陽に求め、或いは諸を陰に求む。皆其の知るべからざるを謂ふなり。敬の至りなり。天か鬼か、一か二か、是れ未だ知るべからざるなり。故に聖人礼を制して、諸を天に帰すと曰ふと雖も、亦た未だ敢へて之を一にせず。敬の至りなり。教への術なり。
現代語訳
聖人は功徳が天のようである。だから天に配して祀る。臣下たちは配さない。孔子は「鬼神を敬って、これを遠ざける」と言った。祭りでは妻であっても拝する。およそ「死者に仕えること、生者に仕えるがごとし」というのはその心を語ったもので、礼が生者に対するのと異なるのは、みな死者を天に帰したものとするからである。天は知ることができない。鬼神も知ることができない。『詩経』に「神がやって来られるのは、推し量ることができない。まして厭うことなどできようか」とあり、伝に「あちらにおられるのか、こちらにおられるのか」とある。礼では、あるいは陽に求め、あるいは陰に求める。みな知ることができないことをいうのであり、敬うことの極みである。天なのか鬼なのか、一つなのか二つなのか、それはまだ知ることができない。だから聖人は礼を制定して天に帰すと言いながらも、あえて一つにはしなかった。敬うことの極みであり、教えの術である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之四・礼一君子は天地をおそれうやまふ。故に大風、大雨、迅雷などの時は、容をあらためて、夜はおきて衣服を著て坐す。是天のいかりを敬ふ礼なり。是亦天につかうまつるの道の一端なり。一少儀曰、虚を執れども盈をとるが如く、虚に入れども人あるが如くにす。いふ意は、内に物なき器をとるにも、盈ちてこぼれやすき器をとるが如く、おそれつつしむべし。人の居らざる家に入るにも、人あるが如くつつしむべし。是は敬の心常にあるを云ふ。礼の本なり。
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『慎思録』巻之六天、異を垂れ、地、妖を吐き、人、病疫す。此の三者、苟も此に一有らば、国家に長たるの人、当に小心にして天の威を畏れ慎むべき所なり。故に天威を畏るる者は、此れ其の国家を保つ所以なり。王荊公の以て天変畏るるに足らずと為す者は、不敬の甚だしきなり。此の一言にして以て邦を喪ふべきなり。
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『弁名』恭敬莊愼獨敬は、尊崇する所有りて敢へて忽せにせざるを謂ふなり。天を敬し、鬼神を敬し、君を敬し、上を敬し、父母を敬し、兄を敬し、賓客を敬するが如き、皆敬する所有るを以て之を言ふ。仁斎先生の宋儒の持敬を駁する者は是なり。祇だ歴く六経を観るに、其の敬を言ふ者多きに居る。祇・粛・斉・荘・寅・恭・欽・畏の如き、其の言殊なりと雖も、皆敬なり。其の然る所以の故を究むるに、蓋し先王の道は、天を敬するを以て本と為し、天道を奉じて以て之を行ふ。人の先王の道を奉ずるは、将に以て天職に供せんとするなり。人は唯だ天を以て本と為し、父母を以て本と為す。先王の道は、祖考を祭りて諸を天に配す。是れ天と父母とを合して之を一にす。是れを一本と謂ふ。君は先王の嗣なり、天に代はる者なり、故に之を敬す。民は天の我に命じて之を治めしむる所以の者なり、故に之を敬す。身は親の枝なり、故に之を敬す。是れ先王の道の天を敬するを本と為す所以の故なり。
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『慎思録』巻之六盧子諒曰く、福は禍の始め為り、禍は福の階為りと。蓋し倚伏の理は、知者の予め知る所にして、愚者の畏れざる所なり。或ひと曰く、天子は天地を祭る。諸侯と雖も之を祭ることを得ず。僭踰を畏るればなり。然らば則ち衆人の如きは、唯だ君父に事ふれば足れり。古人天に事ふと言ふは、恐らくは僭越に似たり、奈何と。諸侯以下天地を祭るは、則ち非なり。天地に事ふるは、天地を祭祀すると同じからず。其の威を畏敬して侮らず、其の道を奉若して背かず、人物を愛育して暴せず、其の恩を仰ぎ思ひて忘れざるが如き、是れ天に事ふるの道なり。賤民と雖も、亦終身之に事ふべき所以なり。
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言志四録・言志録 第九十四条 地道は敬に在り人は須らく地道を守るべし。地道は敬に在り。天に順承するのみ。
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『弁名』恭敬莊愼獨先王の道は天を敬するを本と為す。故に君子の心は、敬せざること毋し。故に経伝に恭敬を言ふに、亦た敬する所を言はざる者有り。「居処恭」「敬に居りて簡を行ふ」「己を脩むるに敬を以てす」の如き、是れなり。「居」と云ひ「居処」と云ふ者は、「仁に居る」の居の如し、亦た身を敬に居くを謂ふなり。宋儒の学は、理を主とし知を貴ぶ。故に其の六経に敬を言ふこと多きに居るを見て、其の説を得ざれば、則ち諸を心に帰す。持敬の説の生ずる所以なり。蓋し理を主とし知を貴ぶ者は、鬼神を信ぜず、天を敬せず。以為へらく、天は理なり、鬼神は陰陽の霊なり、理は我に在り、苟も能く理を尽くさば、則ち天は我に在り、と。是れ其の心既に傲然として恭ならず。此を以て敬の説を求む、其の解を得ざる所以なり。故に徒らに其の心を持して、出入せしめず、之に命じて敬と曰ふ。夫れ其の心を持する者も亦た心なり。心を以て心を持す、両者交々戦ひて已まず。是れ浮屠の下なる者すら猶且つ為さざる所なり。故に徒らに敬を持せんと欲する者は、未だ能く成る者有らず。朱子晩に其の非を悟り、乃ち曰く「畏るる所有りて然り」と。然れども未だ其の理を主とし知を貴ぶの非を悟らず。則ち悟ると雖も猶ほ悟らざるがごとし。豈に哀しからずや。
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