弁名 / 天命帝鬼神
如堯舜以下。作者七人。既祀之學。萬世不替。而五帝之德若是之大。豈泯泯乎不祀。先王之道。斷乎不然矣。所謂祀其始祖。配諸所自出之帝者。卽五帝也。卽上帝也。可知已。至於漢儒以上帝爲天神之尊者。又就五帝別五行之神與人帝。則臆說耳。大氐古之禮。祀后土以禹配。祀祖先。既立主。又立尸。祀天亦然。是先王之道。合天人而一之。故傳曰。合鬼與神。敎之至也。制禮之意如是夫。且帝之名奚昉也。若是天子之名。而推以命諸天。則先王尊天之至。必不敢。若是天之名。而推以命諸天子。則先王之恭。必不敢。以此觀之。帝是五帝。合諸天也。尊聖人之至。豈不然乎。
新字:如堯舜以下。作者七人。既祀之学。万世不替。而五帝之徳若是之大。豈泯泯乎不祀。先王之道。断乎不然矣。所謂祀其始祖。配諸所自出之帝者。即五帝也。即上帝也。可知已。至於漢儒以上帝為天神之尊者。又就五帝別五行之神与人帝。則臆説耳。大氐古之礼。祀后土以禹配。祀祖先。既立主。又立尸。祀天亦然。是先王之道。合天人而一之。故伝曰。合鬼与神。教之至也。制礼之意如是夫。且帝之名奚昉也。若是天子之名。而推以命諸天。則先王尊天之至。必不敢。若是天之名。而推以命諸天子。則先王之恭。必不敢。以此観之。帝是五帝。合諸天也。尊聖人之至。豈不然乎。
書き下し
堯舜以下の如き、作者七人、既に之を学に祀りて、万世替らず。而るに五帝の徳是の若く其れ大なる、豈に泯泯乎として祀らざらんや。先王の道、断乎として然らず。所謂「其の始祖を祀りて、諸を自りて出づる所の帝に配す」とは、即ち五帝なり、即ち上帝なり。知るべきのみ。漢儒の上帝を以て天神の尊き者と為し、又た五帝に就きて五行の神と人帝とを別つに至りては、則ち臆説のみ。大抵古の礼は、后土を祀るに禹を以て配す。祖先を祀るに、既に主を立て、又た尸を立つ。天を祀るも亦た然り。是れ先王の道は、天人を合して之を一にす。故に伝に曰く、「鬼と神とを合するは、教への至りなり」と。礼を制するの意是の如きかな。且つ帝の名は奚くより昉まるや。若し是れ天子の名にして、推して以て諸を天に命くれば、則ち先王の天を尊ぶの至り、必ず敢へてせず。若し是れ天の名にして、推して以て諸を天子に命くれば、則ち先王の恭、必ず敢へてせず。此を以て之を観れば、帝は是れ五帝、諸を天に合す。聖人を尊ぶの至り、豈に然らざらんや。
現代語訳
堯・舜以下、制作した聖人七人は、すでに学校に祀られて万世変わらない。それなのに五帝の徳がこれほど大きいのに、どうして消え去るに任せて祀らないことがあろうか。先王の道は断じてそうではない。「その始祖を祀り、始祖の出たもとの帝に配する」というのは、すなわち五帝であり、すなわち上帝である。それは明らかである。漢儒が上帝を天神の尊いものとし、また五帝について五行の神と人の帝とを区別したのは、臆説にすぎない。おおよそ古の礼では、后土(大地の神)を祀るのに禹を配した。祖先を祀るのには、位牌を立て、さらに尸(かたしろ)を立てた。天を祀るのも同じである。つまり先王の道は、天と人とを合わせて一つにしたのである。だから伝に「鬼と神とを合わせて祀るのは、教えの極みである」という。礼を制定した意図はこのようなものであったのだ。そもそも帝という名はどこから始まったのか。もし天子の名であって、それを推して天に名づけたのなら、天を尊ぶこと極まる先王が、決してそうはしなかったろう。もし天の名であって、それを推して天子に名づけたのなら、恭しい先王が、決してそうはしなかったろう。このことから見れば、帝とは五帝であり、天に合わせて祀ったものである。聖人を尊ぶことの極みとして、まさにそうではないか。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』僖公三十一年 甯武子、相の祀りを拒む三十一年春、濟西の田を取る、曹の地を分かつなり。臧文仲をして往かしむ。重館に宿る。重館の人告げて曰く、「晉新たに諸侯を得たり。必ず其の共(うやうや)しきに親しまん。速やかに行かずんば、將に及ぶ無からんとす」と。之に從ふ。曹の地を分かつこと洮より以南、東のかた濟に傅(つ)く、盡く曹の地なり。襄仲晉に如く、曹の田を拜するなり。夏、四月、四たび郊を卜して從はず。乃ち牲を免(ゆる)す、禮に非ざるなり。猶ほ三望す、亦た禮に非ざるなり。禮には常祀を卜せず、而して其の牲と日とを卜す。牛日を卜するを牲と曰ふ。牲成りて郊を卜す。上怠慢なり。望は、郊の細なり。郊せずんば、亦た望無くして可なり。秋、晉清原に蒐(かり)し、五軍を作りて以って狄を禦ぐ。趙衰卿と為る。冬、狄衛を圍む。衛帝丘に遷る。卜して曰く三百年と。衛の成公康叔の曰ふを夢む、「相予が享を奪ふ」と。公相を祀ることを命ず。甯武子可かずとして曰く、「鬼神は其の族類に非ざれば、其の祀を歆(う)けず。杞・鄫は何事ぞ。相の享けざること、此に於いて久し。衛の罪に非ざるなり。以って成王・周公の命祀を間す可からず。請ふ祀命を改めんことを」と。鄭の洩駕公子瑕を惡む。鄭伯も亦た之を惡む。故に公子瑕出でて楚に奔る。
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『慎思録』巻之三闕里誌に載す。朱子語録に曰く、宣聖は本当に像を設くべからず。春秋の祭の時、只木主を設けて祭りて可なり、と。丘瓊山曰く、塑像の設は、中国に之無し。仏教の中国に入りしより、始めて有るなり。三代以前神を祀るに、皆主を以てし、所謂像設無きなり。彼の異教之を用ふるは、怪しむに足る無き者なり。知らず吾が聖人を祀る者は、何れの時にして始めて像を為すかを、と云ふ。李元瓘の顔子立ちて侍すと言ふを観れば、則ち像は唐の前に在りて已に有るなり。嗚呼、姚燧言へる有り、北史に敢て泥人銅人を造る者有らば、門誅す、と。則ち泥人は固より中土の主を為りて以て聖人を祀るの法に非ざるなり。後世其の非を覚る莫く、亦其の道に化して之を為す。甚だ神にして之を明らかにし、声無く臭無きの道に非ざるなり。
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『慎思録』巻之四始祖の祭は、伊川之を行ふ。朱子曰く、古に此れ無し。伊川義を以て起こす。某当初は也た祭る。後来僭に似たるを覚え、今敢へて祭らず、と。篤信窃かに謂ふ、始祖の祭は、朱子既に之を家礼及び小学に載す。家礼の如きは、朱子四十歳の輯むる所なり。其の間固より晩年の論と合はざる者有り。小学書の如きは、五十八歳の輯むる所なり。拠と為すべきに似たり。然れども当初は也た祭る、後来敢へて祭らずと曰へば、則ち此を以て定説と為すに似たり。丘瓊山曰く、小学に此の条を刪らざるは、必ず其の説有らん、と。是を以て疑はしきを闕きて敢へて決せざるなり。
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尚書・說命中惟れ厥の居る攸にして、政事惟れ醇なり。祭祀に黷(けが)るる、時れ欽まずと謂ふ。礼煩はしければ則ち乱れ、神に事ふること則ち難し。」王曰く、「旨(うま)いかな。説乃の言惟れ服せん。乃言に良からずんば、予行ひに聞く罔からん。」説拝して稽首して曰く、
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