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弁名 / 天命帝鬼神

嗚呼天豈若人之心哉。蓋天也者。不可得而測焉者也。故曰天命靡常。惟命不于常。古之聖人。欽崇敬畏之弗遑若是其至焉者。以其不可得而測故也。漢儒災異之說。猶之古之遺矣然其謂日食若何。地震若何者。是以私智測天者也。宋儒曰。天卽理也者。亦以私智測天者也。仁齋先生所謂當求之於冥冥之中。自有陰隲之理者亦然。夫陰隲者天心也。豈可以理言之乎。故其說終歸於以有心無心之間命之。悲哉。

新字:嗚呼天豈若人之心哉。蓋天也者。不可得而測焉者也。故曰天命靡常。惟命不于常。古之聖人。欽崇敬畏之弗遑若是其至焉者。以其不可得而測故也。漢儒災異之説。猶之古之遺矣然其謂日食若何。地震若何者。是以私智測天者也。宋儒曰。天即理也者。亦以私智測天者也。仁斎先生所謂当求之於冥冥之中。自有陰隲之理者亦然。夫陰隲者天心也。豈可以理言之乎。故其説終帰於以有心無心之間命之。悲哉。

書き下し

嗚呼、天豈に人の心の若くならんや。蓋し天なる者は、得て測るべからざる者なり。故に「天命は常靡し」「惟れ命は常に于てせず」と曰ふ。古の聖人、欽崇敬畏して之れ遑あらざること是の若く其れ至れる者は、其の得て測るべからざるを以ての故なり。漢儒の災異の説は、猶ほ古の遺のごとし。然れども其の日食は若何、地震は若何と謂ふ者は、是れ私智を以て天を測る者なり。宋儒の「天は即ち理なり」と曰ふ者も、亦た私智を以て天を測る者なり。仁斎先生の所謂「当に之を冥冥の中に求むべし、自ら陰騭の理有り」といふ者も亦た然り。夫れ陰騭は天心なり。豈に理を以て之を言ふべけんや。故に其の説終に有心無心の間を以て之に命くるに帰す。悲しいかな。

現代語訳

ああ、天がどうして人の心と同じであろうか。思うに天とは、測り知ることのできないものである。だから「天命は常ならず」「命は一定ではない」という。古の聖人が天を崇め敬い畏れることにこれほど懸命であったのは、天が測り知れないからである。漢儒の災異の説は、古の遺風のようなものではある。しかし日食があればこうだ、地震があればこうだと言うのは、自分の小賢しい知恵で天を測るものである。宋儒の「天とは理である」というのも、自分の知恵で天を測るものである。仁斎先生が「これを奥深く見えないところに求めるべきで、おのずと陰騭(天がひそかに人を定め助ける)の理がある」と言うのも同じである。陰騭とは天の心である。どうして理で語れようか。だからその説は結局、天を「心があるとないとの間」と名づけることに行き着いた。悲しいことだ。

解説

徂徠の天論の結論である。天は測り知れない。だから古の聖人は懸命に敬い畏れた。漢儒の災異説は日食や地震に意味を読み取り、宋儒は天を理とし、仁斎は陰騭の理を説いたが、いずれも人の知恵で天を測ろうとする点で同じ誤りだという。天を測れないと認めることが、敬うことの中身なのである。仕事でも、予測モデルや経験則で未来を言い当てたつもりになると、外れたときに対応できない。測れない部分が必ず残ると知っている人こそ、備えを怠らず、慎み深く判断できるのである。

この章句が説くこと

天天命敬畏私智災異陰騭

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