弁名 / 天命帝鬼神
仁齋先生駁宋儒者至矣。然其學猶之後世之學也。其言曰。以有心視之。則流于災異。若漢儒是也。以無心視之。則流于虛無。若宋儒是也。可謂善爲調停者也已。果其說之是乎。則天也者有心無心之間者也。可謂妄已。夫天之不與人同倫也。猶人之不與禽獸同倫焉。故以人視禽獸之心。豈可得乎。然謂禽獸無心不可也。
新字:仁斎先生駁宋儒者至矣。然其学猶之後世之学也。其言曰。以有心視之。則流于災異。若漢儒是也。以無心視之。則流于虚無。若宋儒是也。可謂善為調停者也已。果其説之是乎。則天也者有心無心之間者也。可謂妄已。夫天之不与人同倫也。猶人之不与禽獣同倫焉。故以人視禽獣之心。豈可得乎。然謂禽獣無心不可也。
書き下し
仁斎先生の宋儒を駁する者は至れり。然れども其の学は猶ほ後世の学のごときなり。其の言に曰く、「有心を以て之を視れば、則ち災異に流る、漢儒の若き是れなり。無心を以て之を視れば、則ち虚無に流る、宋儒の若き是れなり」と。善く調停を為す者と謂ふべきのみ。果して其の説の是ならんか、則ち天なる者は有心無心の間の者なり。妄と謂ふべきのみ。夫れ天の人と倫を同じくせざるは、猶ほ人の禽獣と倫を同じくせざるがごとし。故に人を以て禽獣の心を視んとするも、豈に得べけんや。然れども禽獣は心無しと謂ふは不可なり。
現代語訳
仁斎先生が宋儒を論駁したのは見事である。しかしその学問もやはり後世の学問と同じである。先生は「天に心があると見れば災異説に流れる。漢儒がそうだ。心がないと見れば虚無に流れる。宋儒がそうだ」と言う。うまく調停したものだと言える。しかしもしその説が正しいなら、天とは心があるとないとの中間のものということになる。でたらめと言うべきである。そもそも天が人と同類でないのは、人が鳥獣と同類でないのと同じである。だから人の立場から鳥獣の心を知ろうとしても、どうしてできようか。しかし鳥獣に心がないと言うのは誤りである。
解説
この章句が説くこと
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