導師導古典を学びたいすべての人に

弁名 / 天命帝鬼神

後世學者。逞私智而喜自用。其心傲然自高。不遵先王孔子之敎。任其臆以言之。遂有天卽理也之說。其學以理爲第一義。其意謂聖人之道唯理足以盡之矣。以此其所見。而曰天卽理也則宜若可以爲其尊天之至焉。然理取諸其臆。則亦曰天我知之。豈非不敬之甚乎。故究其說。必至於天道無知而極矣。程子曰。天地無心而有化。豈不然乎。易曰。復其見天地之心乎。天之有心。豈不彰彰著明乎哉。故書曰。惟天無親。克敬惟親。又曰。天道福善禍淫。易曰。天道虧盈而益謙。孔子曰。獲罪於天。無所禱也。豈非以天心言之乎。

新字:後世学者。逞私智而喜自用。其心傲然自高。不遵先王孔子之教。任其臆以言之。遂有天即理也之説。其学以理為第一義。其意謂聖人之道唯理足以尽之矣。以此其所見。而曰天即理也則宜若可以為其尊天之至焉。然理取諸其臆。則亦曰天我知之。豈非不敬之甚乎。故究其説。必至於天道無知而極矣。程子曰。天地無心而有化。豈不然乎。易曰。復其見天地之心乎。天之有心。豈不彰彰著明乎哉。故書曰。惟天無親。克敬惟親。又曰。天道福善禍淫。易曰。天道虧盈而益謙。孔子曰。獲罪於天。無所祷也。豈非以天心言之乎。

書き下し

後世の学者、私智を逞しくして自ら用ふるを喜び、其の心傲然として自ら高しとし、先王孔子の教へに遵はず、其の臆に任せて以て之を言ふ。遂に「天は即ち理なり」の説有り。其の学は理を以て第一義と為す。其の意に謂へらく、聖人の道は唯だ理以て之を尽くすに足ると。此を以て其の見る所、而して「天は即ち理なり」と曰へば、則ち宜しく以て其の天を尊ぶの至りと為すべきが若し。然れども理は諸を其の臆に取れば、則ち亦た「天は我之を知る」と曰ふなり。豈に不敬の甚だしきに非ずや。故に其の説を究むれば、必ず天道は知無しに至りて極まる。程子曰く、「天地は心無くして化有り」と。豈に然らざらんや。易に曰く、「復に其れ天地の心を見るか」と。天の心有る、豈に彰彰著明ならずや。故に書に曰く、「惟れ天は親無し、克く敬するに惟れ親しむ」と。又た曰く、「天道は善に福し淫に禍す」と。易に曰く、「天道は盈を虧きて謙を益す」と。孔子曰く、「罪を天に獲れば、禱る所無し」と。豈に天心を以て之を言ふに非ずや。

現代語訳

後世の学者は、自分の小賢しい知恵をふるって自分の考えで事を行うのを好み、心はおごり高ぶって、先王や孔子の教えに従わず、思うままに語った。そうしてついに「天とは理である」という説が出てきた。その学問は理を第一義とし、聖人の道は理だけで尽くせると考える。そう見ているからこそ「天とは理である」と言えば、天を尊ぶことの極みのように思えるのだろう。しかし理は自分の胸の内から取り出したものであるから、それは結局「天のことは私が知っている」と言うのと同じである。これほどの不敬があろうか。だからその説を突きつめれば、必ず「天道には知がない」というところに行き着く。程子が「天地には心がなくて造化がある」と言ったのが、まさにそうではないか。易に「復の卦に天地の心が見えるだろうか」とある。天に心があることは、まことに明らかではないか。だから『書経』に「天には親しむ相手がない。よく敬う者に親しむ」とあり、また「天道は善に福を与え、淫らなものに禍を与える」とある。易に「天道は満ちたものを欠き、謙虚なものを益す」とあり、孔子は「罪を天に得れば、祈る所もない」と言った。これらはみな天の心について言ったものではないか。

解説

朱子学の「天即理」説に対する徂徠の批判の核心である。天を理と言えば最高の尊崇に見えるが、その理は学者が自分の胸の内から取り出したものにすぎない。つまり「天は私が知っている」と言うに等しく、不敬の極みだという。その帰結が程子の「天地に心なし」であり、書経や易、論語に天の心を語る言葉が多いのと食い違う。徂徠にとって天は理屈で尽くせる対象ではない。現代でも、自分の理論で世界をすべて説明できると思うとき、人は最も謙虚さを失う。分かったと言い切る前に、分からなさを残しておくことが大切である。

この章句が説くこと

天理天即理朱子学敬天天心

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る