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弁名 / 中庸和衷

中者無過不及之謂也。或以爲道之名。或以爲德之名。或以爲性之名。如舜用其中於民。湯建中於民。是道之名也。其解見君牙。曰民心罔中。惟爾之中。蓋天下之理以無過不及爲其至。故人無賢知無愚不肖。惟中是求。自生民以來爲然。然人殊其性。所見以性殊。人殊其居。所見以居殊。而中不定焉。天下之所以亂也。於是先王建中以爲極。使天下之民皆由此以行焉。故極或訓中。是中也者聖人之所獨知。而非衆人所能知也。凡先王之所建。禮樂德義。百爾制度。是皆中也。是皆極也。

新字:中者無過不及之謂也。或以為道之名。或以為徳之名。或以為性之名。如舜用其中於民。湯建中於民。是道之名也。其解見君牙。曰民心罔中。惟爾之中。蓋天下之理以無過不及為其至。故人無賢知無愚不肖。惟中是求。自生民以来為然。然人殊其性。所見以性殊。人殊其居。所見以居殊。而中不定焉。天下之所以乱也。於是先王建中以為極。使天下之民皆由此以行焉。故極或訓中。是中也者聖人之所独知。而非衆人所能知也。凡先王之所建。礼楽徳義。百爾制度。是皆中也。是皆極也。

書き下し

中は過不及無きの謂なり。或いは以て道の名と為し、或いは以て徳の名と為し、或いは以て性の名と為す。「舜其の中を民に用ふ」「湯中を民に建つ」の如き、是れ道の名なり。其の解は君牙に見ゆ。「民心中罔し、惟れ爾の中」と曰ふ。蓋し天下の理は過不及無きを以て其の至りと為す。故に人は賢知と無く愚不肖と無く、惟だ中を是れ求む。生民より以来然りと為す。然れども人其の性を殊にし、見る所性を以て殊なり。人其の居を殊にし、見る所居を以て殊なり。而して中定まらず。天下の乱るる所以なり。是に於いて先王中を建てて以て極と為し、天下の民をして皆此に由りて以て行はしむ。故に極或いは中と訓ず。是れ中なる者は聖人の独り知る所にして、衆人の能く知る所に非ざるなり。凡そ先王の建つる所、礼楽徳義、百爾の制度、是れ皆中なり、是れ皆極なり。

現代語訳

中とは過ぎることも及ばないこともないことをいう。道の名とする場合、徳の名とする場合、性の名とする場合がある。「舜はその中を民に用いた」「湯王は中を民のために建てた」などは道の名である。その解釈は書経の君牙篇に見え、「民の心には中がない。ただあなたの中(が基準)である」とある。思うに天下の道理は過不及のないことを至上とする。だから人は賢く知恵ある者も愚かで至らない者も、ただ中を求める。人が生まれて以来そうである。しかし人は性がそれぞれ違い、見方も性によって違う。人は住む所がそれぞれ違い、見方も住む所によって違う。そのため中が定まらない。これが天下の乱れる原因である。そこで先王は中を建てて極(基準)とし、天下の民がみなこれによって行うようにさせた。だから極を中と訓ずることもある。つまり中というものは聖人だけが知るもので、多くの人が知りうるものではない。およそ先王が建てたもの、礼楽・徳義・あらゆる制度は、みな中であり、みな極である。

解説

中とは過不及のないことだが、人は性も境遇も異なるので、各自が求める中はばらばらになり、それが天下の乱れのもとになる。だから先王は中を「極」すなわち共通の基準として建て、礼楽や制度として示した、と徂徠は説く。中は各自が心の中で探り当てるものではなく、先王が建てて皆が従う標準なのである。組織でも「ちょうどよい」の感覚は人によって違う。だからこそ品質基準や行動指針を明文化して共有する必要がある。基準を建てることが、上に立つ者の大きな仕事なのである。

この章句が説くこと

中極先王制度基準弁名

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