弁名 / 恭敬莊愼獨
夫先王之敎。如化工生物。習慣如天性。豈容力哉。宋儒之敎。如工人作器。夫玉石土木。可攻以爲器。心豈玉石土木之倫哉。故先王之敎。唯有禮以制心耳。外此而妄作。豈不杜撰乎。是其未發已發戒懼愼獨之說。自以爲動靜不遺精密之至。而終莫有遵其敎以造聖人之域者。可以知已。
新字:夫先王之教。如化工生物。習慣如天性。豈容力哉。宋儒之教。如工人作器。夫玉石土木。可攻以為器。心豈玉石土木之倫哉。故先王之教。唯有礼以制心耳。外此而妄作。豈不杜撰乎。是其未発已発戒懼慎独之説。自以為動静不遺精密之至。而終莫有遵其教以造聖人之域者。可以知已。
書き下し
夫れ先王の教へは、化工の物を生ずるが如し。習慣天性の如し。豈に力を容れんや。宋儒の教へは、工人の器を作るが如し。夫れ玉石土木は、攻めて以て器と為すべし。心豈に玉石土木の倫ならんや。故に先王の教へは、唯だ礼以て心を制する有るのみ。此を外にして妄作す、豈に杜撰ならずや。是れ其の未発已発・戒懼慎独の説、自ら以て動静遺さず精密の至りと為せども、終に其の教へに遵ひて以て聖人の域に造る者有ること莫し。以て知るべきのみ。
現代語訳
そもそも先王の教えは、天地の造化が物を生み育てるようなもので、習慣が生まれつきのようになるのである。どうして無理な力を加えることがあろうか。宋儒の教えは、職人が器を作るようなものである。玉や石や土や木なら、削って器にすることができる。しかし心がどうして玉石土木の類であろうか。だから先王の教えには、ただ礼によって心を制することがあるだけである。それ以外に勝手なものを作るのは、でたらめではないか。宋儒の未発・已発、戒懼・慎独の説は、動いているときも静かなときも漏らさない、精密の極みだと自負しているが、結局その教えに従って聖人の域に達した者は一人もいない。これで(その誤りが)わかるであろう。
解説
この章句が説くこと
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