弁名 / 恭敬莊愼獨
愼獨者。謂務成德於己也。大氏先王之道在外。其禮與義。皆多以施於人者言之。學者視以爲道藝。而不務成德於己者衆矣。故又有愼獨之言。其見於傳者。唯大學中庸禮器有之。獨者對人之名。愼者留心之謂也。言道雖在外。然當留心於在我者。而務成我之德。是愼獨之義也。本非敬之謂矣。又非有未發已發之說矣。
新字:慎独者。謂務成徳於己也。大氏先王之道在外。其礼与義。皆多以施於人者言之。学者視以為道芸。而不務成徳於己者衆矣。故又有慎独之言。其見於伝者。唯大学中庸礼器有之。独者対人之名。慎者留心之謂也。言道雖在外。然当留心於在我者。而務成我之徳。是慎独之義也。本非敬之謂矣。又非有未発已発之説矣。
書き下し
慎独は、徳を己に成すを務むるを謂ふなり。大氐先王の道は外に在り。其の礼と義とは、皆多く人に施す者を以て之を言ふ。学者視て以て道芸と為して、徳を己に成すを務めざる者衆し。故に又た慎独の言有り。其の伝に見ゆる者は、唯だ大学・中庸・礼器に之有り。独は人に対するの名なり。慎は心を留むるの謂なり。言ふこころは、道は外に在りと雖も、然れども当に我に在る者に心を留めて、我が徳を成すを務むべし、是れ慎独の義なり。本敬の謂に非ず。又た未発已発の説有るに非ず。
現代語訳
慎独とは、自分に徳を成すことに努めることをいう。おおよそ先王の道は外にあり、その礼と義は、多くが人に施すことについて言われている。そのため学ぶ者は、それを道や技芸として眺めるだけで、自分に徳を成すことに努めない者が多い。だから慎独という言葉もあるのである。伝で見えるのは、大学・中庸・礼記の礼器篇だけである。「独」とは人に対する(自分)という呼び名で、「慎」とは心を留めることである。道は外にあるけれども、自分の内にあるものに心を留めて、自分の徳を成すことに努めよ、というのが慎独の意味である。もともと敬のことではない。また未発・已発といった説があるわけでもない。
解説
この章句が説くこと
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