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弁名 / 恕

恕之解。見論語。曰己所不欲。勿施於人。是也。此八字。一見於答仲弓。是正文也。再見於答子貢。是註入正文也。上文曰其恕乎。傳論語者。乃以此八字解恕字耳。故中庸曰。忠恕違道不遠。施諸己而不願。亦勿施於人。是也。祇恕於文。如心爲恕。故己之所欲。以施於人。亦恕也。然其事廣大。非學者所能。且人心不同。所欲或殊。故止以己所不欲言之耳。孔子曰。能近取譬。可謂仁之方也已。近譬諸己心。是恕也。仁者己欲立而立人。己欲達而達人。是乃未能立之達之。則僅不施其所不欲已。故曰仁之方也。

新字:恕之解。見論語。曰己所不欲。勿施於人。是也。此八字。一見於答仲弓。是正文也。再見於答子貢。是註入正文也。上文曰其恕乎。伝論語者。乃以此八字解恕字耳。故中庸曰。忠恕違道不遠。施諸己而不願。亦勿施於人。是也。祇恕於文。如心為恕。故己之所欲。以施於人。亦恕也。然其事広大。非学者所能。且人心不同。所欲或殊。故止以己所不欲言之耳。孔子曰。能近取譬。可謂仁之方也已。近譬諸己心。是恕也。仁者己欲立而立人。己欲達而達人。是乃未能立之達之。則僅不施其所不欲已。故曰仁之方也。

書き下し

恕の解は論語に見ゆ。「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」と曰ふ、是れなり。此の八字、一たびは仲弓に答ふるに見ゆ、是れ正文なり。再び子貢に答ふるに見ゆ、是れ註の正文に入るなり。上文に「其れ恕か」と曰ふ。論語を伝ふる者、乃ち此の八字を以て恕の字を解するのみ。故に中庸に「忠恕は道を違ること遠からず。諸を己に施して願はざれば、亦た人に施すこと勿かれ」と曰ふ、是れなり。祇だ恕は文に於いて、心の如くするを恕と為す。故に己の欲する所、以て人に施すも、亦た恕なり。然れども其の事広大にして、学者の能くする所に非ず。且つ人心同じからず、欲する所或いは殊なる。故に止だ己の欲せざる所を以て之を言ふのみ。孔子曰く、「能く近く譬へを取る。仁の方と謂ふべきのみ」と。近く諸を己が心に譬ふ、是れ恕なり。仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。是れ乃ち未だ之を立て之を達すること能はざれば、則ち僅かに其の欲せざる所を施さざるのみ。故に仁の方と曰ふなり。

現代語訳

恕の解釈は論語に見える。「自分が望まないことは人にしてはならない」というのがそれである。この八字は、一度は仲弓への答えに見え、これは本文である。もう一度は子貢への答えに見えるが、これは注が本文に紛れ込んだものである。その上に「それは恕だろうか」とあり、論語を伝えた者がこの八字で恕の字を解説したにすぎない。だから中庸に「忠恕は道から遠くない。自分にされて嫌なことは、人にもしてはならない」とあるのがそれである。ただ恕は字の作りでは「心の如くする」ことであるから、自分の望むことを人に施すのもまた恕である。しかしそれは事として広大で、学ぶ者にできることではない。また人の心は同じでなく、望むことも異なることがある。だから自分の望まないことだけで言ったのである。孔子は「身近に自分の心にたとえて考えられること、それが仁への手立てだ」と言った。身近に自分の心にたとえる、これが恕である。仁者は自分が立ちたいと思えば人を立たせ、自分が達したいと思えば人を達せさせる。それがまだできないうちは、せめて望まないことを人にしないだけである。だから「仁の方(手立て)」と言うのである。

解説

恕とは「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」であり、徂徠はこれを古来の定まった解として受け入れる。字の作りからいえば「心の如くする」ことで、自分の望むことを人に施すのも恕だが、人の望みはそれぞれ違うので、望まないことをしないという控えめな形で教えたのだと説く。仁そのものは人を立て人を達する大きな働きで、恕はそこへ向かう入口である。部下や顧客に良かれと自分の好みを押しつけるより、まず相手が嫌がることをしないところから始める。この順序の慎重さに、人の多様さへの配慮がある。

この章句が説くこと

恕仁論語中庸思いやり弁名

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