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弁名 / 忠信

仁齋先生曰。凡與人說。有便曰有。無便曰無。多以爲多。寡以爲寡。不一分增減。方是信。卽宋儒之說也。亦不知古止以施於人者言之。故至於信近於義。信賞必罰之類。則別爲約信之解。可謂蔓已。仁齋先生又曰。忠信皆就接人上言。是措辭之未善也。忠在事君及爲人謀。豈特交際乎。又曰。忠信有朴實不事文飾之意。是亦見彼忠信之人可以學禮而妄解者也。不可從矣。至於先儒以忠信如形影者。則仁齋先生駁之是矣。

新字:仁斎先生曰。凡与人説。有便曰有。無便曰無。多以為多。寡以為寡。不一分增減。方是信。即宋儒之説也。亦不知古止以施於人者言之。故至於信近於義。信賞必罰之類。則別為約信之解。可謂蔓已。仁斎先生又曰。忠信皆就接人上言。是措辞之未善也。忠在事君及為人謀。豈特交際乎。又曰。忠信有朴実不事文飾之意。是亦見彼忠信之人可以学礼而妄解者也。不可従矣。至於先儒以忠信如形影者。則仁斎先生駁之是矣。

書き下し

仁斎先生曰く、「凡そ人と説くに、有れば便ち有と曰ひ、無ければ便ち無と曰ひ、多きは以て多と為し、寡きは以て寡と為し、一分も増減せず、方に是れ信なり」と。即ち宋儒の説なり。亦た古は止だ人に施す者を以て之を言ふを知らず。故に「信は義に近し」「信賞必罰」の類に至りては、則ち別に約信の解を為す。蔓なりと謂ふべきのみ。仁斎先生又曰く、「忠信は皆人に接する上に就きて言ふ」と。是れ措辞の未だ善からざるなり。忠は君に事ふる及び人の為に謀るに在り、豈に特に交際のみならんや。又曰く、「忠信には朴実にして文飾を事とせざるの意有り」と。是れも亦た彼の「忠信の人、以て礼を学ぶべし」を見て妄りに解する者なり。従ふべからず。先儒の忠信を以て形影の如しとする者に至りては、則ち仁斎先生の之を駁するは是なり。

現代語訳

仁斎先生(伊藤仁斎)は「およそ人と話すとき、有れば有る、無ければ無いと言い、多ければ多い、少なければ少ないとして、少しも増減しない。これが信である」と言った。これはつまり宋儒の説である。これも古くはただ人に施すことについて言ったのを知らないからで、そのため「信は義に近い」「信賞必罰」のような例になると、別に「約束を守る」という解釈を立てる。枝葉が広がりすぎていると言うべきだ。仁斎先生はまた「忠信はどちらも人と接する場面について言う」と言った。これは言葉の選び方がよくない。忠は君に仕えることや人のために謀ることにあるのであって、単なる交際だけのことではない。また「忠信には飾り気がなく質朴だという意味がある」とも言った。これもあの「忠信の人は礼を学ぶことができる」を見て勝手に解したもので、従うことはできない。ただ、先儒が忠と信を形と影のように一体のものとした説については、仁斎先生がこれを退けたのは正しい。

解説

ここで徂徠は伊藤仁斎の忠信の解釈を一つずつ検討する。仁斎は信を「事実を一分も増減せず語ること」としたが、徂徠はそれも宋儒と同じく言葉を個人の心構えに閉じ込めた読みだとし、そのため「信賞必罰」の信を説明するのに別の解を継ぎ足す羽目になったと批判する。また忠を「交際」に限るのも狭いと言う。一方で、正しい点は正しいと認める公平さも見せている。一つの言葉に場面ごとの解釈を継ぎ足すより、その語の根にある一つの意味をつかむほうが応用が利く。社内の用語や評価基準も同じである。

この章句が説くこと

信忠信仁斎言葉古言弁名

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