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弁名 / 忠信

如與朋友交。言而有信。亦雖朋友之交。非若事親竭力事君致身之比。故淺乎言之。然朋友者。所以游揚其聲譽。達之於上者也。故中庸曰。獲乎上有道。不信乎朋友。不獲乎上矣。是先王所以立朋友之道命之爲信也。後之君子或嫌其有所求而爲之。故止責其信。而不及見信之意。其弊或至於獨立絕物以爲高也。矯枉之言終非先王爲道不遠人之意。學者察諸。又如文行忠信。信爲言語之科。言語之道。貴有徵。故以信命之。如曰言有物。是君子之言所以有徵故也。如後世諸儒。議論雖美。空言無徵。豈敢望宰我子貢言語之科哉。

新字:如与朋友交。言而有信。亦雖朋友之交。非若事親竭力事君致身之比。故浅乎言之。然朋友者。所以游揚其声誉。達之於上者也。故中庸曰。獲乎上有道。不信乎朋友。不獲乎上矣。是先王所以立朋友之道命之為信也。後之君子或嫌其有所求而為之。故止責其信。而不及見信之意。其弊或至於独立絶物以為高也。矯枉之言終非先王為道不遠人之意。学者察諸。又如文行忠信。信為言語之科。言語之道。貴有徴。故以信命之。如曰言有物。是君子之言所以有徴故也。如後世諸儒。議論雖美。空言無徴。豈敢望宰我子貢言語之科哉。

書き下し

「朋友と交はり、言ひて信有り」の如きも、亦た朋友の交はりと雖も、親に事へて力を竭くし、君に事へて身を致すの比に非ず。故に浅く之を言ふ。然れども朋友とは、其の声誉を游揚して、之を上に達する所以の者なり。故に中庸に曰く、「上に獲らるるに道有り、朋友に信ぜられずんば、上に獲られず」と。是れ先王の朋友の道を立てて之に命じて信と為す所以なり。後の君子或いは其の求むる所有りて之を為すを嫌ふ。故に止だ其の信を責めて、信ぜらるるの意に及ばず。其の弊或いは独立して物を絶つを以て高しと為すに至る。枉れるを矯むるの言は、終に先王の道を為すこと人に遠からざるの意に非ず。学者之を察せよ。又「文・行・忠・信」の如き、信は言語の科為り。言語の道は、徴有るを貴ぶ。故に信を以て之に命ず。「言に物有り」と曰ふが如き、是れ君子の言の徴有る所以の故なり。後世の諸儒の如き、議論美なりと雖も、空言にして徴無し。豈に敢へて宰我・子貢の言語の科を望まんや。

現代語訳

「友人と交わるには、言葉に信がある」というのも、友人との交わりは、親に仕えて力を尽くし、君主に仕えて身をささげるのとは比べものにならないので、軽く言ったのである。しかし友人とは、その人の評判を広めて上に届けてくれる存在である。だから『中庸』に「上に認められるには道がある。友人に信じられなければ、上に認められない」とある。これが、先王が朋友の道を立てて、それを信と名づけた理由である。後世の君子の中には、何かを求めてそうすることを嫌う者がいる。だから自分の信を責めるだけで、人に信じられるという意味にまで及ばない。その弊害は、孤立して人との交わりを絶つことを高尚とするに至ることがある。曲がったものを矯めようとして逆に行き過ぎた言葉は、結局、先王が「道は人から遠くない」とした意図とは違う。学ぶ者はよく考えよ。また「文・行・忠・信」の信は、言語の科目にあたる。言語の道は裏づけがあることを尊ぶ。だから信と名づけた。「言葉に中身がある」というのも、君子の言葉に裏づけがあるからである。後世の儒者たちは、議論は美しくても空論で裏づけがない。どうして宰我や子貢の言語の科に及ぼうか。

解説

朋友の信は、友人が自分の評判を上に伝えてくれる存在だからこそ大事なのだと、徂徠は率直に言う。後世の君子はそうした打算を嫌い、自分の誠実さだけを問い、ついには人との交わりを絶つことを高尚とした。だがそれは「道は人に遠からず」という先王の意図に背く。また孔門の言語の科が信と名づけられたのは、言葉に裏づけがあることを尊ぶからで、美しくても実証のない後世の議論はその名に値しない。人の輪の中で信用を築き、言葉に中身を持たせることが求められている。

この章句が説くこと

信朋友言語先王評判中庸

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