童子問 / 卷上
故孔子曰。中庸之爲德也。其至矣乎。民鮮久矣。至矣。子必想。外耳目之所見聞。而更有至貴至高光明閃爍。可驚可樂之理。非矣。天地之間。唯一實理而已矣。更無奇特。自有生民以來有君臣。有父子。有夫婦。有昆弟。有朋友。相親相愛。相從相聚。善者以爲善。惡者以爲惡。是者以爲是。非者以爲非。萬古之前如此。萬古之後亦如此。子能孝弟忠信。修身勤業。夙夜匪懈則自合於天道。宜於人倫。不至失所以爲人也。詩曰。永思配命。自求多福。或有人以至貴至高光明閃爍。可驚可樂之理。說與汝者。若非野狐山鬼魅汝。必是邪說之魁也。謹勿聽。
新字:故孔子曰。中庸之為徳也。其至矣乎。民鮮久矣。至矣。子必想。外耳目之所見聞。而更有至貴至高光明閃爍。可驚可楽之理。非矣。天地之間。唯一実理而已矣。更無奇特。自有生民以来有君臣。有父子。有夫婦。有昆弟。有朋友。相親相愛。相従相聚。善者以為善。悪者以為悪。是者以為是。非者以為非。万古之前如此。万古之後亦如此。子能孝弟忠信。修身勤業。夙夜匪懈則自合於天道。宜於人倫。不至失所以為人也。詩曰。永思配命。自求多福。或有人以至貴至高光明閃爍。可驚可楽之理。説与汝者。若非野狐山鬼魅汝。必是邪説之魁也。謹勿聴。
書き下し
故に孔子曰く、中庸の徳為るや、其れ至れるかな、民鮮きこと久しと。至れりとは、子必ず想ふ、耳目の見聞する所を外にして、更に至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理有らんと。非なり。天地の間は、唯だ一つの実理のみ。更に奇特無し。生民有りてより以来、君臣有り、父子有り、夫婦有り、昆弟有り、朋友有り。相親しみ相愛し、相従ひ相聚まる。善なる者は以て善と為し、悪なる者は以て悪と為し、是なる者は以て是と為し、非なる者は以て非と為す。万古の前も此の如く、万古の後も亦た此の如し。子能く孝弟忠信にして、身を修め業を勤め、夙夜懈らざれば、則ち自ら天道に合し、人倫に宜しくして、人為る所以を失ふに至らず。詩に曰く、永く言に命に配し、自ら多福を求むと。或いは人至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理を以て、汝に説き与ふる者有らば、野狐山鬼の汝を魅するに非ずんば、必ず是れ邪説の魁なり。謹んで聴くこと勿かれ。
現代語訳
だから孔子は「中庸という徳は至上のものであるなあ。それを備えた民が少なくなって久しい」と言った。「至上」と聞けば、あなたはきっと、耳目で見聞きするものの外に、さらに至って貴く至って高く、光り輝き、驚くべく楽しむべき道理があると想像するだろう。それは誤りである。天地の間にはただ一つの真実の道理があるだけで、ほかに奇特なものはない。人類が生まれて以来、君臣があり、父子があり、夫婦があり、兄弟があり、朋友があって、互いに親しみ愛し合い、従い合い集まり合う。善いものを善とし、悪いものを悪とし、正しいものを正しいとし、誤ったものを誤りとする。太古の昔もこのとおりであり、遠い未来もまたこのとおりである。あなたが孝弟忠信につとめ、身を修め、仕事に励み、朝から晩まで怠らなければ、おのずと天の道にかない、人倫にふさわしく、人が人である理由を失うことはない。詩経に『いつまでも天命にかなうよう心がけ、自ら多くの幸せを求める』とある。もし誰かが、至って貴く高く、光り輝き、驚くべく楽しむべき道理なるものをあなたに説くならば、それは野狐や山の化け物があなたを惑わしているのでなければ、必ず邪説の首領である。決して耳を貸してはならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之五・信初にうけ合はざるは、しばらく人の心に喜ばずといへども、信に害なし。心よわく又気かろがろしくして、たやすくうけあひ、後に其約違ひぬれば、甚信に害あり。されど人の為に謀つて忠あるは、人にまじはる道なれば、なるべき理だにあらば、うけ合ひて心を尽すべし。是忠厚の道なり。誠は実理なり。ここを以て、真実无妄之を誠と謂ふと、程子もいへり。中庸に誠は天の道なりといへるは、天道の実理、自然に行はるるを云ふ。聖人の誠も、亦同じ。つとめずして、自ら実なるなり。又曰く、之を誠にする者は人の道なりといへるは、人の力を用ひて、つとめなすを誠之と云ふ。是即忠信なり。つとめずして自然なるは誠なり。つとめて実なるは忠信なり。誠は理なり。忠信は心なり。
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『初学訓』巻之四一およそ、農工商の三民は、君に仕へずして禄なし。みづから利養を求むるを専とす。されど、義理を捨てて利養を求むるは、天道に背き、人事を妨げて、たとひ、一旦の利を得るといへど、必ず天の咎人のにくみ有りて、後の禍にあふ。おろかなるものは、眼前の利をのみ謀りて、後の禍を知らず。不善を行ひて、利をむさぼること小なれば、財を失ふ。甚しければ、家を破り身を亡す。天のせめ人のにくみ遁れがたし、愚なるにあらずや。誠は天の道なり。之を誠にするは、人の道なり。四時行はれ、百物生る。善にさいはひし悪にわざはひす。是天道のまことなり、古今たがはず。人の道は、これを則として、つとめて誠にするにあり。ここをもつて、人の心は誠を主とす。誠あらざれば物なし。君父によく仕へ、いかなる善を行ひても、誠なければ為す事皆ひがごとなり。是を物なしといふ。つとめて善を行ふも、誠なければ、みづから欺き、人を欺くに至る、惜むべし。欺くとは偽るなり。故に、万の事誠を本とすべし。孔子の主忠信とのたまふも、此意なり。忠信は誠の心なり。
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『大和俗訓』巻之三・心術上一我が身の慾を恣にするより大なる禍なし。人の非をそしるより大なる悪なしと、古人いへり。此二は、義理に乖くのみならず、身を亡す道なり。常に心にかけて戒むべし。一凡平生の心法は、真実にして偽なかるべし。中庸に、誠は天の道なり、之を誠にする者は、人の道なりといへり。誠は天の道なりとは、陰陽のしわざ、日月のめぐり、春夏秋冬の次第、いにしへ今かはらず、草木の、春生じ、夏長じ、秋みのり、冬をさまりて、年々にかはりなきも、皆是天道の誠なり。之を誠にすとは、人の力にて、つとめて誠にするを云ふ。人は天地の子なれば、天道の誠を法とし、したがひて行ふべし。是之を誠にするは人の道なり。孔子も忠信を主とすとのたまへり。此意は、誠を以て人の心の主とすべしとなり。
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『童子問』卷上問ふ、先生は易知易行なる者を是とし、難知難行なる者を非と説く。安んぞ難知難行なる者の真に是にして、易知易行なる者の是に非ざることを知らんや。乞ふ、申ねて論究せよ。曰く、中庸に曰く、「道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり」と。道の真是真非は、実に此に判る。須臾も離るべからざる者は、堯舜孔子の道是れのみ。仏老の道の若きは、之有りて天下に益無く、之無くして天下に損無し。皆得て離るべし。豈に之を道と謂ふに足らんや。老荘の説は、戦国秦漢の際に盛んなり。浮屠の法は、後漢永平八年に始めて漢土に来たる。唐虞三代の時には皆之無し。然れども天下泰平にして、黎民寿考し、治皆数百年に及ぶ。時に二氏無きを以て其の治を害せざるなり。秦皇・漢武・唐の玄宗・宋の徽宗は最も道教を信ず。然れども政治日に壊れ、国俗日に隳る。仏法は晋・宋・斉・梁・陳・隋に盛んにして、延いて唐宋に及ぶ。六朝の間、乱亡相尋ぐ。時に二氏有るを以て其の乱を救はざるなり。唐宋頗る小康なりと雖も、本仏法に関はるに非ず、亦太平と為すに足らず。則ち豈に之有りて天下に益無く、之無くして天下に損無きに非ずや。堯舜孔子の道の若きは、一日之を離るれば、則ち天下の君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友、皆其の所を失ふ。豈に須臾も離るべからざるの道に非ずや。其の真是真非も亦判然たり。
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『初学訓』巻之一中庸に、性にしたがふを道といふとは、性とは人の心に生れつきたる五性をいふ。仁の性にしたがへば、父子を親み、臣民をいつくしみ、万物を愛する、皆是仁の道なり。義の性にしたがへば、君につかへて、忠を尽し、身を忘れ、老人を敬ひ、賢人をたふとび、利を好まず、財を貪らず、行ふべきすぢめの宜しきをうしなはざるは、皆是義の道なり。礼の性にしたがへば、長幼貴賤のまじはりに次第あり、貴人と老いたるを敬ひ、賤しきと少きをあなどらず、よろづの作法正しく、則を失はざるは、皆是、礼の道なり。智の性にしたがへば、夫婦の別正しく、人の善悪と、万事の邪正をよく知り弁ふる類、皆是智の道なり。信の性にしたがへば、朋友のまじはり偽なく、万の事まことあり、始終ありて、約束たがはざる、皆是、信の道なり。此五性にしたがひて五倫を行ふを、道といふ。中庸に、性にしたがふを道といふはこれなり。
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『童子問』卷上問ふ、中庸は性・道・教を以て序と為す。今道を以て上と為し、教之に次ぎ、而して性を以て道を尽くし教を受くるの地と為す。其の措詞の次第、同じからざる者有るが若し。何ぞやと。曰く、本中庸の理と異なること無し。但だ註家錯説するのみ。中庸の言は、聖人の道は本人性の自然に循ひて、相離れず、諸子百家の自ら私し智を用ひて、人倫日用を遠ざけて以て道と為すが若きに非ざるを言ふなり。故に曰く、性に率ふ之を道と謂ふと。又曰く、離るべきは道に非ざるなりと。夫れ性とは、天の我に賦予して、人人の固より有する所なり。若し性に循ふと否とを論ぜずんば、則ち以て道の邪正を見ること無し。故に中庸先づ性を挙げて言を為すのみ。性を以て道より貴しと為すに非ざるなり。
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