弁名 / 義
人有恒言曰。是某詩之義也。是某字之義也。是豈有裁割斷制之意哉。亦以古來相傳者命爲義已。如詩有六義。亦豈裁割斷制之意哉。以謂用詩之道。古來相傳。有此差別已。又如老子所謂失道而後德。失德而後仁。失仁而後義。失義而後禮。是雖譏聖人之道乎。亦可見古人以古言言之。其意以仁義禮爲先王所造。爲非自然之道。故有是言已。告子義外之說亦然。若使告子果不知義。則孟子必辯之。觀於孟子不爾。而但辯其內外。則知告子之言不誤也。是老子告子孟子。皆以先王之義爲義也。
新字:人有恒言曰。是某詩之義也。是某字之義也。是豈有裁割断制之意哉。亦以古来相伝者命為義已。如詩有六義。亦豈裁割断制之意哉。以謂用詩之道。古来相伝。有此差別已。又如老子所謂失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後礼。是雖譏聖人之道乎。亦可見古人以古言言之。其意以仁義礼為先王所造。為非自然之道。故有是言已。告子義外之説亦然。若使告子果不知義。則孟子必弁之。観於孟子不爾。而但弁其内外。則知告子之言不誤也。是老子告子孟子。皆以先王之義為義也。
書き下し
人恒言有りて曰く、「是れ某詩の義なり、是れ某字の義なり」と。是れ豈に裁割断制の意有らんや。亦た古来相伝ふる者を以て命じて義と為すのみ。詩に六義有るが如きも、亦た豈に裁割断制の意ならんや。以謂へらく詩を用ふるの道、古来相伝へて、此の差別有りと。又老子の所謂「道を失ひて後に徳あり、徳を失ひて後に仁あり、仁を失ひて後に義あり、義を失ひて後に礼あり」の如き、是れ聖人の道を譏ると雖も、亦た古人の古言を以て之を言ふを見るべし。其の意、仁義礼を以て先王の造る所と為し、自然の道に非ずと為す。故に是の言有り。告子の義外の説も亦た然り。若し告子をして果して義を知らざらしめば、則ち孟子必ず之を弁ぜん。孟子の爾らずして、但だ其の内外を弁ずるを観れば、則ち告子の言の誤らざるを知る。是れ老子・告子・孟子、皆先王の義を以て義と為すなり。
現代語訳
人は日ごろ「これはある詩の義(意味)だ」「これはある字の義だ」と言う。これにどうして切り分けて裁くという意味があろうか。古くから伝えられてきたものを義と呼んでいるだけである。『詩経』に「六義」があるのも、切り分けて裁くという意味ではない。詩を用いる方法として古来伝えられてきた区別がある、ということである。また老子が「道を失って後に徳があり、徳を失って後に仁があり、仁を失って後に義があり、義を失って後に礼がある」と言ったのは、聖人の道をそしったものではあるが、古人が古い言葉でそれを言っていることが見てとれる。その意味は、仁・義・礼を先王が作ったものとし、自然の道ではないとしたので、こう言ったのである。告子の「義は外にある」という説も同じである。もし告子が本当に義を知らなかったなら、孟子は必ずそれを論破したはずである。孟子がそうせず、ただ内か外かを論じたのを見れば、告子の言葉が誤っていなかったことがわかる。つまり老子・告子・孟子はみな、先王の義を義としていたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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