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弁名 / 禮

書曰。天秩有禮。是堯舜之制禮。奉天道以行之。所以神其敎也。如三代天子。出一政。興一事。亦皆祀祖宗配之天。而以天與祖宗之命出之。以卜筮行之。古之道爲爾。後儒不識其意。而以爲天者自然也。謂自然有是禮也。是其天理節文之所本自。殊不知以天爲自然者。老莊之意。而古所無焉。若果使禮自然有之。則如三代殊其禮。其謂之何。故其究。不得不以天理爲精微。以禮爲粗迹。苟得其精微。則若其粗迹。左之亦可。右之亦可也。

新字:書曰。天秩有礼。是堯舜之制礼。奉天道以行之。所以神其教也。如三代天子。出一政。興一事。亦皆祀祖宗配之天。而以天与祖宗之命出之。以卜筮行之。古之道為爾。後儒不識其意。而以為天者自然也。謂自然有是礼也。是其天理節文之所本自。殊不知以天為自然者。老荘之意。而古所無焉。若果使礼自然有之。則如三代殊其礼。其謂之何。故其究。不得不以天理為精微。以礼為粗迹。苟得其精微。則若其粗迹。左之亦可。右之亦可也。

書き下し

書に曰く、「天秩に礼有り」と。是れ堯舜の礼を制する、天道を奉じて以て之を行ふ、其の教を神にする所以なり。三代の天子の如きも、一政を出だし、一事を興すに、亦た皆祖宗を祀りて之を天に配し、天と祖宗との命を以て之を出だし、卜筮を以て之を行ふ。古の道爲り爾り。後儒其の意を識らずして、以為へらく天とは自然なりと。自然に是の礼有りと謂ふなり。是れ其の天理節文の本づく所なり。殊に知らず、天を以て自然と為すは老荘の意にして、古に無き所なるを。若し果して礼をして自然に之有らしめば、則ち三代の其の礼を殊にするが如き、其れ之を何とか謂はん。故に其の究め、天理を以て精微と為し、礼を以て粗迹と為さざるを得ず。苟も其の精微を得れば、則ち其の粗迹の若きは、之を左にするも亦た可なり、之を右にするも亦た可なり。

現代語訳

『書経』に「天の秩序に礼がある」とある。これは堯舜が礼を定めたとき、天道を奉じて行い、それによって教えを神聖なものにしたということである。三代の天子も、一つの政令を出し一つの事業を起こすときには、みな祖宗を祀って天に配し、天と祖宗の命として発し、占いによって行った。それが古の道であった。後世の儒者はその意味を知らず、「天とは自然である」と考え、礼は自然にそうあるものだと言う。これが「天理の節文」という説のもとである。天を自然とみなすのは老荘の考えで、古にはなかったことをまったく知らない。もし本当に礼が自然に存在するなら、三代で礼が違っていることをどう説明するのか。だから行き着くところ、天理を精妙なもの、礼を粗い外形とせざるを得ない。精妙なものさえつかめば、粗い外形のほうは左にしても右にしてもかまわない、ということになる。

解説

『書経』の「天秩に礼有り」は、聖人が天への畏敬をもって礼を定め、教えに重みを与えたことを言う。ところが朱子学は天を「自然」と読み替え、礼は自然にある理の表れだと説いた。徂徠は、天を自然とするのは老荘の発想で古にはないと指摘し、もし礼が自然のものなら三代で礼が違うはずがないと突く。理さえわかれば形はどうでもよいという結論に流れるのが、その説の危うさである。原則論だけで手順を軽視する組織の崩れ方にも重なる。

この章句が説くこと

礼天先王天理老荘自然

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