弁名 / 禮
禮者。道之名也。先王所制作四敎六藝。是居其一。所謂經禮三百。威儀三千。是其物也。六藝。書數爲庶人在官者府史胥徒專務。御亦士所職。射雖通乎諸侯。其所謂射。以禮樂行之。非若民射主皮者比焉。唯禮樂乃藝之大者。君子所務也。而樂掌於伶官。君子以養德耳。至於禮則君子以此爲顯業。是以孔子少以知禮見稱。之周問禮於老聃。之杞之宋。唯禮之求。子夏所記。曾子所問。七十子皆斷斷於禮。見檀弓諸篇。三代君子之務禮。可以見已。
新字:礼者。道之名也。先王所制作四教六芸。是居其一。所謂経礼三百。威儀三千。是其物也。六芸。書数為庶人在官者府史胥徒専務。御亦士所職。射雖通乎諸侯。其所謂射。以礼楽行之。非若民射主皮者比焉。唯礼楽乃芸之大者。君子所務也。而楽掌於伶官。君子以養徳耳。至於礼則君子以此為顕業。是以孔子少以知礼見称。之周問礼於老聃。之杞之宋。唯礼之求。子夏所記。曽子所問。七十子皆断断於礼。見檀弓諸篇。三代君子之務礼。可以見已。
書き下し
礼は道の名なり。先王の制作する所の四教・六芸、是れ其の一に居る。所謂経礼三百、威儀三千、是れ其の物なり。六芸は、書・数は庶人の官に在る者、府・史・胥・徒の専ら務むる所と為す。御も亦た士の職とする所なり。射は諸侯に通ずと雖も、其の所謂射は、礼楽を以て之を行ふ、民の射の皮を主とする者の比に非ず。唯だ礼楽のみ乃ち芸の大なる者にして、君子の務むる所なり。而して楽は伶官に掌られ、君子以て徳を養ふのみ。礼に至りては則ち君子此を以て顕業と為す。是を以て孔子少くして礼を知るを以て称せられ、周に之きて礼を老聃に問ひ、杞に之き宋に之き、唯だ礼を之れ求む。子夏の記す所、曾子の問ふ所、七十子皆礼に断断たり。檀弓の諸篇に見ゆ。三代の君子の礼を務むる、以て見るべきのみ。
現代語訳
礼とは道の名である。先王が作った四教・六芸のうち、礼はその一つを占める。いわゆる「経礼三百、威儀三千」がその中身である。六芸のうち、書と数は庶民で官に仕える府・史・胥・徒(下級の役人)がもっぱら務めるもので、御(馬車を御すること)もまた士の職分である。射は諸侯にまで通じるが、ここでいう射は礼楽によって行うもので、民の射が的の皮を射抜くことを主とするのとは違う。ただ礼楽だけが六芸の大なるもので、君子の務めである。そのうち楽は伶官(楽官)がつかさどり、君子はそれで徳を養うだけである。礼については君子はこれを表立った本業とした。だから孔子は若いころから礼を知る人として評判で、周に行って老聃に礼を問い、杞や宋に行ったのもただ礼を求めてであった。子夏の記したもの、曾子の問うたもの、七十人の弟子はみな礼に熱心であったことが、『礼記』檀弓などの諸篇に見える。夏・殷・周三代の君子が礼に努めたことがよくわかる。
解説
この章句が説くこと
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