弁名 / 聖
夫聖人亦人耳。人之德以性殊。雖聖人其德豈同乎。而均謂之聖人者。以制作故也。唯制作之迹可見矣。就其可見以命之。而不敢論其德。尊之至也。古之道爲爾。後儒貴精賤粗之見。爲主於內。故不知禮樂謂之道也。又不知聖人之稱因制作命之也。徒以其德論之。而不知德以性殊。也。德之殊。不足以病其聖也。妄意謂聖人之德宜一焉。而睹其有殊。則曰孔子優於堯舜矣。曰湯武非聖人矣。豈非無忌憚之甚者乎。
新字:夫聖人亦人耳。人之徳以性殊。雖聖人其徳豈同乎。而均謂之聖人者。以制作故也。唯制作之迹可見矣。就其可見以命之。而不敢論其徳。尊之至也。古之道為爾。後儒貴精賤粗之見。為主於内。故不知礼楽謂之道也。又不知聖人之称因制作命之也。徒以其徳論之。而不知徳以性殊。也。徳之殊。不足以病其聖也。妄意謂聖人之徳宜一焉。而睹其有殊。則曰孔子優於堯舜矣。曰湯武非聖人矣。豈非無忌憚之甚者乎。
書き下し
夫れ聖人も亦た人のみ。人の徳は性を以て殊なり。聖人と雖も其の徳豈に同じからんや。而して均しく之を聖人と謂ふ者は、制作を以ての故なり。唯だ制作の迹のみ見るべし。其の見るべきに就きて以て之に命じ、而して敢へて其の徳を論ぜず。尊ぶことの至りなり。古の道爲り爾り。後儒は精を貴び粗を賤しむの見、内に主と為る。故に礼楽の之を道と謂ふを知らず。又聖人の称の制作に因りて之に命ずるを知らず。徒らに其の徳を以て之を論じて、徳の性を以て殊なるを知らざるなり。徳の殊なるは、以て其の聖を病ましむるに足らず。妄りに意ふ、聖人の徳は宜しく一なるべしと。而して其の殊なる有るを睹れば、則ち孔子は堯舜より優れりと曰ひ、湯武は聖人に非ずと曰ふ。豈に忌憚無きの甚しき者に非ずや。
現代語訳
聖人もまた人である。人の徳は生まれつきによって異なる。聖人であってもその徳がどうして同じであろうか。それでも等しく聖人と呼ぶのは、制度を作ったからである。見ることができるのは制作の跡だけであり、その見えるものによって名づけ、あえて徳を論じない。これが尊ぶことの極みである。これが古の道であった。後世の儒者は、精妙なものを尊び粗いものを軽んじる見方が心の中で主となっている。だから礼楽こそを道と呼ぶことを知らず、また聖人という呼び名が制作によって付けられたことも知らない。ただ徳だけで論じて、徳が生まれつきで異なることを知らない。徳が異なっても、聖人であることを損なうものではない。それなのに聖人の徳は一様であるべきだと勝手に思い込み、違いがあるのを見ると、孔子は堯舜より優れているとか、湯武は聖人ではないとか言う。慎みを知らぬことはなはだしいではないか。
解説
この章句が説くこと
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