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弁名 / 仁

夫先王之敎。詩書禮樂而已矣。禮樂不言。習以成德。豈外此而別有所謂成仁之方乎。且先王之道。本爲安民立之。故其言脩身者。亦皆以爲行仁之本已。豈徒成己哉。後儒狃聞莊周內聖外王之說。而謂天下國家擧而措之。是以其解仁。或以天理。或以愛。專歸重於內。而止於成己。豈不悲乎。有論說道藝而曰是仁也者。是非稱先王之德也。亦非稱仁人與仁政也。乃贊道之德者已。後儒不察混而一之。詳見下仁義。

新字:夫先王之教。詩書礼楽而已矣。礼楽不言。習以成徳。豈外此而別有所謂成仁之方乎。且先王之道。本為安民立之。故其言脩身者。亦皆以為行仁之本已。豈徒成己哉。後儒狃聞荘周内聖外王之説。而謂天下国家挙而措之。是以其解仁。或以天理。或以愛。専帰重於内。而止於成己。豈不悲乎。有論説道芸而曰是仁也者。是非称先王之徳也。亦非称仁人与仁政也。乃賛道之徳者已。後儒不察混而一之。詳見下仁義。

書き下し

夫れ先王の教へは、詩書礼楽のみ。礼楽は言はず、習ひて以て徳を成す。豈に此に外にして別に所謂仁を成すの方有らんや。且つ先王の道は、本と民を安んずるが為に之を立つ。故に其の脩身を言ふ者も、亦た皆以て仁を行ふの本と為すのみ。豈に徒に己を成すのみならんや。後儒は荘周の内聖外王の説を聞くに狃れて、天下国家挙げて之を措くと謂ふ。是を以て其の仁を解するに、或いは天理を以てし、或いは愛を以てし、専ら重きを内に帰して、己を成すに止まる。豈に悲しからずや。道芸を論説して是れ仁なりと曰ふ者有り。是れ先王の徳を称するに非ず、亦た仁人と仁政とを称するに非ず。乃ち道の徳を賛する者のみ。後儒察せずして混じて之を一にす。詳らかには下の仁義に見ゆ。

現代語訳

そもそも先王の教えは詩・書・礼・楽だけである。礼楽は言葉で説かず、習うことで徳を成す。これ以外に、仁を成す方法などが別にあろうか。しかも先王の道は、もともと民を安らかにするために立てたものである。だから修身を言うのも、みな仁を行う根本としてであって、ただ自分を完成させるためだけではない。後の儒者は荘子の「内に聖、外に王」の説を聞き慣れて、内が整えば天下国家はそのまま治まると言う。だから仁を解するのに、天理によったり愛によったりして、もっぱら内面を重んじ、自分を完成させることにとどまる。悲しいことではないか。また道や芸を論じて「これが仁だ」と言う場合がある。これは先王の徳を称えたのでもなく、仁の人や仁政を称えたのでもない。道の徳をほめたたえたにすぎない。後の儒者はこれを見分けず、混同して一つにしてしまった。詳しくは後の「仁義」の条に述べる。

解説

先王の教えは詩書礼楽だけで、礼楽は言葉で説かず、習うことで徳を育てる。修身も仁を行う土台であり、自己完成が目的ではないと徂徠は言う。ところが後儒は荘子の「内聖外王」に慣れ、内面さえ整えば天下は治まると考えて、仁を内面の問題に閉じ込めた。自分を磨くこと自体が目的になると、学びは自己満足に終わる。資格取得や自己研鑽も、それが誰の役に立つのかという外への働きにつながってはじめて仁となる。内を整えるのは、外に働くための準備なのである。

この章句が説くこと

修身礼楽仁内聖外王荘子安民

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