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弁名 / 道

曰一變至於道。謂先王道行之世也。曰可與適道。謂身合於先王之道也。曰至道。曰大道。尊先王之道之辭。曰志於道。曰朝聞道。曰天下有道。曰國有道。曰國無道。曰無道之君。曰就有道而正焉。凡單言道者。皆以先王之道言之。無道者先王之道全亡也。有道者不必全有也。如有道之士。以身有道藝言之。先王之道在外。六藝亦先王之道也。故古以道藝竝稱。大小之分耳。雖其人有德。然不知先王之道。則不得稱有道之士。後世道德之名混矣。學者其審諸。

新字:曰一変至於道。謂先王道行之世也。曰可与適道。謂身合於先王之道也。曰至道。曰大道。尊先王之道之辞。曰志於道。曰朝聞道。曰天下有道。曰国有道。曰国無道。曰無道之君。曰就有道而正焉。凡単言道者。皆以先王之道言之。無道者先王之道全亡也。有道者不必全有也。如有道之士。以身有道芸言之。先王之道在外。六芸亦先王之道也。故古以道芸並称。大小之分耳。雖其人有徳。然不知先王之道。則不得称有道之士。後世道徳之名混矣。学者其審諸。

書き下し

一変して道に至ると曰ふは、先王の道行はるるの世を謂ふなり。与に道に適くべしと曰ふは、身の先王の道に合ふを謂ふなり。至道と曰ひ、大道と曰ふは、先王の道を尊ぶの辞なり。道に志すと曰ひ、朝に道を聞くと曰ひ、天下道有りと曰ひ、国道有りと曰ひ、国道無しと曰ひ、無道の君と曰ひ、有道に就きて正すと曰ふ。凡そ単に道と言ふ者は、皆先王の道を以て之を言ふ。道無しとは先王の道全く亡ぶるなり。道有りとは必ずしも全く有るにあらざるなり。有道の士の如きは、身に道芸有るを以て之を言ふ。先王の道は外に在り、六芸も亦た先王の道なり。故に古は道芸を以て並び称す。大小の分のみ。其の人徳有りと雖も、然れども先王の道を知らざれば、則ち有道の士と称するを得ず。後世道徳の名混ず。学者其れ諸を審らかにせよ。

現代語訳

「一変すれば道に至る」とは、先王の道が行われている世を言う。「ともに道に向かうことができる」とは、身が先王の道に合うことを言う。「至道」「大道」というのは、先王の道を尊ぶ言葉である。「道に志す」「朝に道を聞く」「天下に道がある」「国に道がある」「国に道がない」「無道の君」「道ある人について正す」。およそ単に「道」と言う場合は、みな先王の道を指している。「道がない」とは先王の道がまったく滅んだことであり、「道がある」とは必ずしも完全にあるという意味ではない。「有道の士」というのは、身に道芸を備えていることを言う。先王の道は人の外にあり、六芸(礼・楽・射・御・書・数)もまた先王の道である。だから古くは道と芸を並べて称した。大小の違いにすぎない。たとえその人に徳があっても、先王の道を知らなければ、有道の士と称することはできない。後世、道と徳の名が混ざってしまった。学ぶ者はよく見分けよ。

解説

『論語』の「道に志す」「朝に道を聞かば」などで単に「道」と言えば、すべて先王の道を指すと徂徠は定める。大事なのは、道は人の外にあり、六芸と同じく学んで身につける技芸の延長だという点である。だから人柄がよくても先王の道を知らなければ「有道の士」ではない。朱子学以後、道と徳が混同され、内面の善さがそのまま道とされたことへの批判である。現場でも、人柄の良さと専門の技量は別物として評価すべきだ。善い人であることと、仕事の道を修めていることを混同すると、育成の焦点がぼやける。

この章句が説くこと

道六芸道芸徳先王技量

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