弁道 / 第十九則
理無形。故無準。如理學者流。以中庸爲精微之極。其言誠然。然其人若先識先王之道。而後贊嘆之謂是中庸也。則可矣。若其人未嘗識先王之道。獨以己意擇中庸之理。而謂是與先王之道不殊。則不可也。又如訓道爲當行之理。亦以贊嘆先王之道也。則可矣。若獨以己意求所謂當行之理於事物。而合於先王之道也。則不可矣。是無它也。理無形。故無準。其以爲中庸爲當行之理者。廼其人所見耳。所見人人殊。人人各以其心謂是中庸也。是當行也。若是而已矣。人間北看成南。亦何所準哉。又如天理人欲之說。可謂精微已。然亦無準也。辟如兩鄕人爭地界。苟無官以聽之。將何所準哉。故先王孔子皆無是言。宋儒造之。無用之辨也。要之未免堅白之歸耳。
新字:理無形。故無準。如理学者流。以中庸為精微之極。其言誠然。然其人若先識先王之道。而後賛嘆之謂是中庸也。則可矣。若其人未嘗識先王之道。独以己意択中庸之理。而謂是与先王之道不殊。則不可也。又如訓道為当行之理。亦以賛嘆先王之道也。則可矣。若独以己意求所謂当行之理於事物。而合於先王之道也。則不可矣。是無它也。理無形。故無準。其以為中庸為当行之理者。廼其人所見耳。所見人人殊。人人各以其心謂是中庸也。是当行也。若是而已矣。人間北看成南。亦何所準哉。又如天理人欲之説。可謂精微已。然亦無準也。辟如両郷人争地界。苟無官以聴之。将何所準哉。故先王孔子皆無是言。宋儒造之。無用之弁也。要之未免堅白之帰耳。
書き下し
理は形無し。故に準無し。理学者流の、中庸を以て精微の極と為すが如き、其の言誠に然り。然れども其の人若し先づ先王の道を識りて、而る後に之を賛嘆して是れ中庸なりと謂はば、則ち可なり。若し其の人未だ嘗て先王の道を識らずして、独り己が意を以て中庸の理を択び、而して是れ先王の道と殊ならずと謂はば、則ち不可なり。又た道を訓じて当行の理と為すが如きも、亦た以て先王の道を賛嘆するならば、則ち可なり。若し独り己が意を以て所謂当行の理を事物に求めて、而して先王の道に合すとせば、則ち不可なり。是れ它無し。理は形無し、故に準無し。其の以て中庸と為し当行の理と為す者は、廼ち其の人の見る所のみ。見る所人人殊なり。人人各〻其の心を以て是れ中庸なり、是れ当行なりと謂ふ。是くの若きのみ。人間北に看て南と成す、亦た何の準とする所あらんや。又た天理人欲の説の如き、精微と謂ふべきのみ。然れども亦た準無し。辟へば両郷の人地界を争ふが如し。苟も官以て之を聴く無くんば、将た何をか準とせんや。故に先王孔子皆是の言無し。宋儒之を造る。無用の辨なり。之を要するに未だ堅白の帰を免れざるのみ。
現代語訳
理には形がない。だから基準がない。理学者たちが中庸を精微の極みとするのは、言葉自体はまことにそのとおりである。しかしその人がまず先王の道を知り、そのうえでそれを讃えて「これが中庸だ」と言うのならよい。もしその人が先王の道を知らないまま、自分の考えだけで中庸の理を選び、「これは先王の道と違わない」と言うのなら、それはいけない。また道を「まさに行うべき理」と解するのも、先王の道を讃えて言うのならよい。もし自分の考えだけでその理を事物に求め、それが先王の道に合うとするのなら、それはいけない。理由はほかでもない。理には形がなく、だから基準がないのである。彼らが中庸だ、当行の理だとするものは、その人の見方にすぎない。見方は人それぞれ違う。人々がめいめい自分の心で「これが中庸だ」「これがなすべきことだ」と言う。それだけのことである。世間には北を見て南だと言う者もいる。何を基準にするのか。また天理人欲の説も、精微とは言えるが、やはり基準がない。たとえば二つの村の人が境界を争うようなもので、役所がこれを裁かなければ、何を基準にするのか。だから先王・孔子はこんなことを言わなかった。宋儒が作り出したもので、役に立たない議論である。要するに(公孫竜の)「堅白」のような詭弁に行き着くのを免れない。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・修身・理に罪を得ざるは難し法に罪を得ざるは易く、理に罪を得ざるは難し。君子は只だ是れ理に罪を得ざるのみ。
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論語・先進篇子貢問う、「師と商とは孰れか賢れる。」子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」曰く、「然らば則ち師愈れるか。」子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段曲に泥むことあつては、書を見るとも不審ばかり出でて、心を解くの楽しみとは成るまじ。滞りて困しむは、我が知の開けざる所なりと知るべし。子思曰く、今夫れ天は斯の昭々の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰繋り、万物覆はると。此の味を見て知るべし。天は広大なれども、耿々と少しばかり明らかなる、器の中の天を見て、其の高大の天を知るべし。聖人も、天地の外を、巡り見玉ふにはあらず。子曰く、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなりと。前を推して後を知り、今より推して始めを知る。人と生るれば、仁義礼智の性は、古今相続きて変らず。是れ天地に有りては元亨利貞と云ふ。名は替れども、万物の理は一なり。一物を知り得れば、一物の中に、万物の理はこもれり。然れども此の微妙の理は、容易く知るべき所にあらず。
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『慎思録』巻之五天地の間、道に非ざる無し。鳶の飛び、魚の躍る者は、乃ち天機の発動する所、道の費なり。此れ見るべし。鳶をして飛ばしめ、魚をして躍らしむる者は、鬼神の為す所、是れ二気の良能、道の隠なり。此れ見るべからず。合せて之を言へば、則ち二気の流行する所、皆是れ天理の在る所にして、道に非ざる無し。
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『童子問』卷中問ふ、理学の称、信に聖学の実に称はず。然れども理の字の如きは、亦軽んずべからず。曰く、然り。孟子曰く、理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとしと。是れなり。孟子の意は、物の条理有るを謂ふ。宋儒の意と頗る異なり。宋儒以為へらく、一の理の字、以て天下の事を尽くすべしと。殊に知らず、天下理外の物無しと雖も、然り而して、一の理の字を以て天下の事を断ずべからざることを。学者一の理の字に拠りて、以て天下の事理を断ずれば、議論聞くべくして、之を実に求むれば、則ち其の悉く中ることを得ず。夫れ古今の終始は、得て究むべからず。四旁の窮際は、得て知るべからず。近くは諸を身に取り、遠くは諸を物に取るも、凡そ其の形状性情、然る所以の故は、皆得て窮詰すべからざるなり。仏者は三千世界を説き、儒者は十二万九千六百年を以て一元と為す。然れども推して其の外に到れば、則ち亦皆得て知るべからざるなり。理の窮むべからざるや、見るべし。
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