都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
曲ニ泥コトアツテハ、書ヲ見ルトモ不審バカリ出テ、心ヲ解ノ樂ミトハ成マジ、滯テ困ムハ、我知ノ開ケザル所ナリト知ベシ、子思曰、今夫天斯昭々多、及其無窮也、日月星辰繫焉、萬物覆焉、此味ヲ見テ知ルベシ、天ハ廣大ナレドモ、耿々ト少シバカリ明カナル、器ノ中ノ天ヲ見テ、其高大ノ天ヲ知ルベシ、聖人モ、天地ノ外ヲ、巡リ見玉フニハアラズ、子曰、殷因於夏禮、所損益可知也ト、前ヲ推後ヲ知リ、今ヨリ推始ヲ知、人ト生ルレバ、仁義禮智ノ性ハ、古今相續テ不變、是天地ニ有テハ元亨利貞ト云、名ハ替レドモ、萬物ノ理ハ一ナリ、一物ヲ知リ得レバ、一物ノ中ニ、萬物ノ理ハコモレリ、然レ共此微妙ノ理ハ、容易知ベキ所ニアラズ、
新字:曲ニ泥コトアツテハ、書ヲ見ルトモ不審バカリ出テ、心ヲ解ノ楽ミトハ成マジ、滞テ困ムハ、我知ノ開ケザル所ナリト知ベシ、子思曰、今夫天斯昭々多、及其無窮也、日月星辰繋焉、万物覆焉、此味ヲ見テ知ルベシ、天ハ広大ナレドモ、耿々ト少シバカリ明カナル、器ノ中ノ天ヲ見テ、其高大ノ天ヲ知ルベシ、聖人モ、天地ノ外ヲ、巡リ見玉フニハアラズ、子曰、殷因於夏礼、所損益可知也ト、前ヲ推後ヲ知リ、今ヨリ推始ヲ知、人ト生ルレバ、仁義礼智ノ性ハ、古今相続テ不変、是天地ニ有テハ元亨利貞ト云、名ハ替レドモ、万物ノ理ハ一ナリ、一物ヲ知リ得レバ、一物ノ中ニ、万物ノ理ハコモレリ、然レ共此微妙ノ理ハ、容易知ベキ所ニアラズ、
書き下し
曲に泥むことあつては、書を見るとも不審ばかり出でて、心を解くの楽しみとは成るまじ。滞りて困しむは、我が知の開けざる所なりと知るべし。子思曰く、今夫れ天は斯の昭々の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰繋り、万物覆はると。此の味を見て知るべし。天は広大なれども、耿々と少しばかり明らかなる、器の中の天を見て、其の高大の天を知るべし。聖人も、天地の外を、巡り見玉ふにはあらず。子曰く、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなりと。前を推して後を知り、今より推して始めを知る。人と生るれば、仁義礼智の性は、古今相続きて変らず。是れ天地に有りては元亨利貞と云ふ。名は替れども、万物の理は一なり。一物を知り得れば、一物の中に、万物の理はこもれり。然れども此の微妙の理は、容易く知るべき所にあらず。
現代語訳
細かいところに拘泥していては、書を読んでも不審ばかりが出て、心の解ける楽しみにはならないでしょう。行き詰まって苦しむのは、自分の知恵が開けていないところだと知るべきです。子思は『いま天というものは、ほんの小さな明るさが集まったものにすぎないが、その果てしなさに至っては、日月星辰がかかり、万物がおおわれている』と言いました。この味わいを見て知りなさい。天は広大ですが、ほんの少しだけ明るく見える器の中の天を見て、その高く大きな天を知るのです。聖人も天地の外を巡って見たわけではありません。孔子は『殷は夏の礼を受け継いだ。何を減らし何を加えたかは知ることができる』と言いました。前から推して後を知り、今から推して始まりを知るのです。人と生まれれば、仁義礼智の性は昔から今まで受け継がれて変わりません。これを天地においては元亨利貞と言います。名は変わっても万物の理は一つです。一つの物を知れば、その一物の中に万物の理がこもっています。しかし、この微妙な理はたやすく知れるものではありません。
解説

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『弁道』第十九則理は形無し。故に準無し。理学者流の、中庸を以て精微の極と為すが如き、其の言誠に然り。然れども其の人若し先づ先王の道を識りて、而る後に之を賛嘆して是れ中庸なりと謂はば、則ち可なり。若し其の人未だ嘗て先王の道を識らずして、独り己が意を以て中庸の理を択び、而して是れ先王の道と殊ならずと謂はば、則ち不可なり。又た道を訓じて当行の理と為すが如きも、亦た以て先王の道を賛嘆するならば、則ち可なり。若し独り己が意を以て所謂当行の理を事物に求めて、而して先王の道に合すとせば、則ち不可なり。是れ它無し。理は形無し、故に準無し。其の以て中庸と為し当行の理と為す者は、廼ち其の人の見る所のみ。見る所人人殊なり。人人各〻其の心を以て是れ中庸なり、是れ当行なりと謂ふ。是くの若きのみ。人間北に看て南と成す、亦た何の準とする所あらんや。又た天理人欲の説の如き、精微と謂ふべきのみ。然れども亦た準無し。辟へば両郷の人地界を争ふが如し。苟も官以て之を聴く無くんば、将た何をか準とせんや。故に先王孔子皆是の言無し。宋儒之を造る。無用の辨なり。之を要するに未だ堅白の帰を免れざるのみ。
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『慎思録』巻之五天地の間、道に非ざる無し。鳶の飛び、魚の躍る者は、乃ち天機の発動する所、道の費なり。此れ見るべし。鳶をして飛ばしめ、魚をして躍らしむる者は、鬼神の為す所、是れ二気の良能、道の隠なり。此れ見るべからず。合せて之を言へば、則ち二気の流行する所、皆是れ天理の在る所にして、道に非ざる無し。
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『慎思録』巻之二朱子は好んで恰好の二字を説く。蓋し人の行ふ所、時宜に合ひて事変に達し、人情に応じて物理に順ひ、凡百の行ひ惟だ過不及の差無ければ、則ち処る所皆恰好なり。此れ恰好の二字の理に当たる所以なり。
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