弁道 / 第十七則
古者道謂之文。禮樂之謂也。物相雜曰文。豈一言所能盡哉。古謂儒者之道博而寡要。道之本體爲然。後世貴簡貴要。夫直情徑行者。戎狄之道也。先王之道不然。孔子曰。文王既歿。文不在茲乎。後儒謂謙辭。夫文者文王之文也。假使孔子自謙。而謙文王哉。是自理學者流二精粗之見耳。又有文質之說。文者道也。禮樂也。質者學者之質也。貴忠信者。謂受敎之質耳。忠信而無文。不免爲鄕人矣。故孔子十室之邑。不貴忠信。而貴好學也。後儒僅能言精粗本末一以貫之。而察其意所鄕往。則亦唯重內輕外。貴精賤粗。貴簡貴要。貴明白貴齊整。由此以往。先王之道。藉以衰颯枯槁。肅殺之氣。塞於宇宙。其究必馴致於戎狄之道而後已焉。蓋坐不知古之時道謂之文。而其敎在養以成德故也。
新字:古者道謂之文。礼楽之謂也。物相雑曰文。豈一言所能尽哉。古謂儒者之道博而寡要。道之本体為然。後世貴簡貴要。夫直情径行者。戎狄之道也。先王之道不然。孔子曰。文王既歿。文不在茲乎。後儒謂謙辞。夫文者文王之文也。仮使孔子自謙。而謙文王哉。是自理学者流二精粗之見耳。又有文質之説。文者道也。礼楽也。質者学者之質也。貴忠信者。謂受教之質耳。忠信而無文。不免為郷人矣。故孔子十室之邑。不貴忠信。而貴好学也。後儒僅能言精粗本末一以貫之。而察其意所郷往。則亦唯重内軽外。貴精賤粗。貴簡貴要。貴明白貴斉整。由此以往。先王之道。藉以衰颯枯槁。粛殺之気。塞於宇宙。其究必馴致於戎狄之道而後已焉。蓋坐不知古之時道謂之文。而其教在養以成徳故也。
書き下し
古は道之を文と謂ふ。礼楽の謂なり。物相雑はるを文と曰ふ。豈に一言の能く尽くす所ならんや。古は儒者の道を博くして要寡しと謂ふ。道の本体然りと為す。後世は簡を貴び要を貴ぶ。夫れ情を直くして径に行ふ者は戎狄の道なり。先王の道は然らず。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや」と。後儒謙辞と謂ふ。夫れ文とは文王の文なり。仮使孔子自ら謙するも、而して文王を謙せんや。是れ理学者流の精粗を二にするの見よりするのみ。又た文質の説有り。文とは道なり、礼楽なり。質とは学者の質なり。忠信を貴ぶとは、教へを受くるの質を謂ふのみ。忠信にして文無くんば、郷人たるを免れず。故に孔子は十室の邑に、忠信を貴ばずして、学を好むを貴ぶなり。後儒僅かに能く精粗本末一以て之を貫くと言ふも、而も其の意の郷往する所を察すれば、則ち亦た唯内を重んじ外を軽んじ、精を貴び粗を賤しみ、簡を貴び要を貴び、明白を貴び斉整を貴ぶ。此れ由り以往、先王の道、藉りて以て衰颯枯槁し、粛殺の気、宇宙に塞がる。其の究め必ず馴致して戎狄の道に至りて後已む。蓋し古の時道之を文と謂ひ、而して其の教へは養ひて以て徳を成すに在るを知らざるに坐するが故なり。
現代語訳
古代には道を「文」と言った。礼楽のことである。物が入り混じって模様をなすのを「文」という。どうして一言で尽くせようか。古代に「儒者の道は広くて要点が少ない」と言われたのは、道の本来の姿がそうだからである。後世は簡潔を貴び、要点を貴ぶ。そもそも感情のままにまっすぐ行動するのは夷狄の道である。先王の道はそうではない。孔子は「文王はすでに亡くなったが、文はここにあるではないか」と言った。後世の儒者は、(道と言わずに文と言ったのは)謙遜の言葉だとする。しかし文とは文王の文である。たとえ孔子が自分について謙遜したとしても、文王まで謙遜させるだろうか。これは理学者たちの、精と粗を二つに分ける見方から来ている。また文と質の説がある。文とは道であり、礼楽である。質とは学ぶ者の素地である。忠信を貴ぶというのは、教えを受ける素地のことを言うにすぎない。忠信であっても文がなければ、田舎者であることを免れない。だから孔子は、十軒ほどの村にも自分ほど忠信な者はいるだろうが、自分ほど学を好む者はいないと言って、忠信ではなく好学を貴んだのである。後世の儒者は口先では「精粗本末を一つで貫く」と言うが、その心が向かうところを察すれば、やはり内を重んじて外を軽んじ、精を貴び粗を賤しみ、簡潔と要点を貴び、明白と整然を貴んでいる。これより先、先王の道はこれによって衰え枯れ、殺伐とした気が宇宙に満ちる。行き着く先は必ず次第に夷狄の道になってしまうだろう。思うに、古代には道を文と言い、その教えは養って徳を成すことにあったと知らないからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷上但だ其の生質の美は、観るべしと曰ふと雖も、然れども微にして未だ著れず、小にして未だ充たず。故に聖人教へを立て学を設け、人に書を読み文を学ぶことを教へて、以て其の微なる者を著し、其の小なる者を充たすのみ。然れども天下の同じく然る所に出でて、一毫も其の間に増加する所無し。故に中庸に曰く、「道を修むる之を教へと謂ふ」と。蓋し生質の美は善なりと雖も、然れども拡めて之を充たすに非ざれば、則ち以て徳を成すに足らず。故に曰く、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の学を好むに如かざるなり」と。道は聖人と雖も、固より知らず能はざる所有り。然れども其の本は、則ち夫婦の愚不肖も与に知り能く行ふ所にして、知り難く行ひ難き者無きなり。学者真に能く此の理を識得して、而る後以て学を為すべきなり。知るべし、向に所謂至貴至高、流俗に出で、人情に遠く、甚だ高くして行ひ難き者の道に非ざることを。
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論語・子罕篇子曰く、忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること毋かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
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論語・衛霊公篇子張、行を問う。子曰く、「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば、則ち其の前に参するを見るなり。輿に在れば、則ち其の衡に倚るを見るなり。夫れ然る後に行われん。」子張、諸を紳に書す。
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説苑・雜言孔子、呂梁を観る。懸水四十仞、環流九十里、魚鱉過ぐる能わず、黿鼉敢えて居らず。一丈夫有り、方に将に之を渉らんとす。孔子人をして崖に並びて之を止めしめて曰く、「此の懸水四十仞、圜流九十里、魚鱉敢えて過ぎず、黿鼉敢えて居らず、意うに済り難からんか」と。丈夫意に錯かず、遂に渡りて出づ。孔子問う、「子巧みなるか。且つ道術有るか。能く入りて出づる所以は何ぞや」と。丈夫曰く、「始め吾入るや、先ず忠信を以てす。吾の出づるや、又従うに忠信を以てす。忠信吾が軀を波流に錯くも、吾敢えて私を用いず。吾の能く入りて復た出づる所以なり」と。孔子弟子に謂いて曰く、「水すら尚お忠信を以てす可し、義久しくして身之に親しめば、況んや人に於いてをや」と。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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孔子家語・儒行解儒に金玉を宝とせずして、忠信を以て宝と為し、土地を祈らずして、仁義を以て土地と為し、多積を求めずして、多文を以て富と為す有り。得難くして禄し易く、禄し易くして畜い難し。時に非ざれば見えず、亦た難得ならずや。義に非ざれば合わず、亦た難畜ならずや。労を先にして禄を後にす、亦た易禄ならずや。其の人情に近きこと此くの如き者有り。儒に之に委ぬるに財貨を以てして貪らず、之を淹すに楽好を以てして淫せず、之を劫すに衆を以てして懼れず、之を阻むに兵を以てして懾れず、利を見て其の義を虧かず、死を見て其の守りを更めず、鷙虫の攫搏も其の勇を程らず、重鼎を引くも其の力を程らず、往く者を悔いず、来る者を予めせず、過言再びせず、流言極めず、其の威を断たず、其の謀を習わず有り。其の特立すること此くの如き者有り。
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