弁道 / 第八則
多謂人有仁義猶天有陰陽也。遂以仁義爲道之總。是後世之言也。當先王孔子之時。豈求一言以盡乎道焉。求一言以盡乎道者。務標異聖人之道者也。先王孔子之時。豈有是哉。古者禮義對言焉耳矣。仁者聖人之大德。豈禮義之倫乎。故孔門之敎。仁是爲上。至於孟子竝言仁義。以是而辨楊墨之非。可也。以敎學者。不可也。如仁義禮智。亦孔子時所無。孟子始言之。亦備楊墨所不有者。以見吾道之備已。其實禮義人之大端。而仁於斯爲大。
新字:多謂人有仁義猶天有陰陽也。遂以仁義為道之総。是後世之言也。当先王孔子之時。豈求一言以尽乎道焉。求一言以尽乎道者。務標異聖人之道者也。先王孔子之時。豈有是哉。古者礼義対言焉耳矣。仁者聖人之大徳。豈礼義之倫乎。故孔門之教。仁是為上。至於孟子並言仁義。以是而弁楊墨之非。可也。以教学者。不可也。如仁義礼智。亦孔子時所無。孟子始言之。亦備楊墨所不有者。以見吾道之備已。其実礼義人之大端。而仁於斯為大。
書き下し
多く人に仁義有るは猶ほ天に陰陽有るがごとしと謂ひ、遂に仁義を以て道の総と為す。是れ後世の言なり。先王孔子の時に当たりて、豈に一言を求めて以て道を尽くさんや。一言を求めて以て道を尽くす者は、務めて聖人の道に標異する者なり。先王孔子の時、豈に是れ有らんや。古は礼義対言するのみ。仁は聖人の大徳なり、豈に礼義の倫ならんや。故に孔門の教へ、仁是れを上と為す。孟子の仁義を並べ言ふに至りては、是を以て楊墨の非を辨ずるは可なり。以て学者に教ふるは不可なり。仁義礼智の如きも、亦た孔子の時に無き所なり。孟子始めて之を言ふ。亦た楊墨の有たざる所の者を備へて、以て吾が道の備はれるを見すのみ。其の実、礼義は人の大端にして、仁は斯に於て大なりと為す。
現代語訳
多くの人は「人に仁義があるのは天に陰陽があるようなものだ」と言い、ついに仁義を道の総体とする。これは後世の言い方である。先王・孔子の時代に、どうして一言で道を言い尽くそうとしたであろうか。一言で道を言い尽くそうとするのは、聖人の道に目立つ旗印を掲げようとする者である。先王・孔子の時代にそんなことがあったはずがない。古代には「礼義」と対にして言っただけである。仁は聖人の大徳であって、どうして礼義と同列であろうか。だから孔子の門の教えでは仁を最上とした。孟子が仁義を並べて言ったのは、それによって楊朱・墨子の誤りを論じるためならよいが、それで学ぶ者を教えるのはよくない。仁義礼智というのも孔子の時代にはなかったもので、孟子が初めて言った。これも楊墨にないものを揃えて、儒の道が完備していることを示そうとしたにすぎない。実際には礼義は人の大きな筋目であり、仁はその中でも大きなものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
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『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
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『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
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『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
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『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
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