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弁道 / 第五則

先王聰明睿知之德。禀諸天性。非凡人所能及焉。故古者無學爲聖人之說也。蓋先王之德。兼備衆美。難可得名。而所命爲聖者。取諸制作之一端耳。先王開國。制作禮樂。是雖一端。先王之所以爲先王。亦唯是耳。若唯以其在己之德。則無天子之分矣。若以平治天下之仁命之。則後賢王皆爾。制作禮樂。是其大者也。故以命先王之德爾。其實聖亦一德。如書曰乃聖乃文。詩曰聖敬日躋。及周禮六德。聖居其三。是豈先王之德之全哉。

新字:先王聰明睿知之徳。禀諸天性。非凡人所能及焉。故古者無学為聖人之説也。蓋先王之徳。兼備衆美。難可得名。而所命為聖者。取諸制作之一端耳。先王開国。制作礼楽。是雖一端。先王之所以為先王。亦唯是耳。若唯以其在己之徳。則無天子之分矣。若以平治天下之仁命之。則後賢王皆爾。制作礼楽。是其大者也。故以命先王之徳爾。其実聖亦一徳。如書曰乃聖乃文。詩曰聖敬日躋。及周礼六徳。聖居其三。是豈先王之徳之全哉。

書き下し

先王の聡明睿知の徳は、諸を天性に稟く。凡人の能く及ぶ所に非ず。故に古は学びて聖人と為るの説無きなり。蓋し先王の徳は衆美を兼ね備へ、得て名づくべきこと難し。而して命けて聖と為す所の者は、諸を制作の一端に取るのみ。先王国を開き、礼楽を制作す。是れ一端なりと雖も、先王の先王たる所以も、亦た唯是れのみ。若し唯其の己に在るの徳を以てせば、則ち天子の分無し。若し天下を平治するの仁を以て之に命くれば、則ち後の賢王も皆爾り。礼楽を制作する、是れ其の大なる者なり。故に以て先王の徳に命くるのみ。其の実、聖も亦た一徳なり。書に「乃ち聖乃ち文」と曰ひ、詩に「聖敬日に躋る」と曰ひ、及び周礼の六徳に聖其の三に居るが如し。是れ豈に先王の徳の全ならんや。

現代語訳

先王の聡明で深い知恵の徳は天性として授かったもので、凡人の及ぶところではない。だから古代には、学んで聖人になるという説はなかった。思うに先王の徳はあらゆる美点を兼ね備えていて、名づけようがない。それを「聖」と名づけたのは、制作という一面から取ったにすぎない。先王は国を開き、礼楽を制作した。これは一面ではあるが、先王が先王である理由もただこれに尽きる。もし自分自身に備わる徳だけで呼ぶなら、天子という身分の区別がなくなる。もし天下を平らかに治めた仁で呼ぶなら、後の賢王もみなそうである。礼楽を制作したこと、これこそが大きなことである。だからそれで先王の徳を呼んだのである。実のところ聖もまた一つの徳にすぎない。『書経』に「聖であり文である」とあり、『詩経』に「聖と敬が日に高まる」とあり、『周礼』の六徳でも聖は三番目に置かれているのがその例である。これがどうして先王の徳の全体であろうか。

解説

第五則は「聖人」という語の本来の意味を問う。先王の徳は天性のもので名づけようがないほど多面的だが、それを「聖」と呼んだのは礼楽を制作したという一点によるという。仁や個人の徳で呼べば後の賢王も同じになるから、制作こそが先王を先王たらしめるのである。『書経』『詩経』『周礼』では聖は数ある徳の一つにすぎないと、経書の用例から論証する点に古文辞学の手法が見える。言葉の意味を後世の通念でなく当時の用例から確かめる姿勢は、資料を読むどんな仕事にも役立つ。

この章句が説くこと

聖人先王制作礼楽徳古文辞

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