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弁道 / 第一則

古之時。作者之謂聖。而孔子非作者。故以至誠爲聖人之德。而又有三重之說。主意所在。爲孔子解嘲者可見焉。然誠者。聖人之一德。豈足以盡之哉。至於孟子性善。亦子思之流也。杞柳之喩。告子盡之矣。孟子折之者過矣。蓋子思本意。亦謂聖人率人性以立道云爾。非謂人人率性。自然皆合乎道也。它木不可爲桮棬。則杞柳之性有桮棬。雖然。桮棬豈杞柳之自然乎。惻隱羞惡。皆明仁義本於性耳。其實惻隱不足以盡仁。而羞惡有未必義者也。立言一偏。毫氂千里。後世心學。肧胎于此。荀子非之者是矣。故思孟者。聖門之禦侮也。荀子者。思孟之忠臣也。

新字:古之時。作者之謂聖。而孔子非作者。故以至誠為聖人之徳。而又有三重之説。主意所在。為孔子解嘲者可見焉。然誠者。聖人之一徳。豈足以尽之哉。至於孟子性善。亦子思之流也。杞柳之喩。告子尽之矣。孟子折之者過矣。蓋子思本意。亦謂聖人率人性以立道云爾。非謂人人率性。自然皆合乎道也。它木不可為桮棬。則杞柳之性有桮棬。雖然。桮棬豈杞柳之自然乎。惻隠羞悪。皆明仁義本於性耳。其実惻隠不足以尽仁。而羞悪有未必義者也。立言一偏。毫氂千里。後世心学。肧胎于此。荀子非之者是矣。故思孟者。聖門之禦侮也。荀子者。思孟之忠臣也。

書き下し

古の時は、作者之を聖と謂ふ。而るに孔子は作者に非ず。故に至誠を以て聖人の徳と為し、而して又た三重の説有り。主意の在る所、孔子の為に嘲りを解く者なること見るべし。然れども誠は聖人の一徳なり、豈に以て之を尽くすに足らんや。孟子の性善に至りては、亦た子思の流れなり。杞柳の喩へは、告子之を尽くせり。孟子の之を折くは過てり。蓋し子思の本意も、亦た聖人人性に率ひて以て道を立つと謂ふのみ。人人性に率へば自然に皆道に合ふと謂ふに非ざるなり。它木は桮棬と為すべからず、則ち杞柳の性に桮棬有り。然りと雖も、桮棬豈に杞柳の自然ならんや。惻隠羞悪は、皆仁義の性に本づくを明らかにするのみ。其の実、惻隠は以て仁を尽くすに足らず、而して羞悪も未だ必ずしも義ならざる者有り。言を立つること一偏なれば、毫釐も千里なり。後世の心学、此に胚胎す。荀子の之を非とするは是なり。故に思孟は聖門の禦侮なり。荀子は思孟の忠臣なり。

現代語訳

古代には、(礼楽を)作った者を聖人と呼んだ。ところが孔子は作った人ではない。そこで子思は「至誠」を聖人の徳とし、さらに(『中庸』の)「三重」の説を立てた。その主眼が、孔子のために世の嘲りを弁じることにあったのは見て取れる。しかし誠は聖人の徳の一つにすぎず、それで聖人を言い尽くせるものではない。孟子の性善説もまた子思の流れである。杞柳(こりやなぎ)の喩えは告子が言い尽くしており、孟子がそれを論破したのは行き過ぎであった。思うに子思の本意も、聖人が人の性に従って道を立てたということにすぎず、人が誰でも性に従えばおのずと道にかなうという意味ではない。他の木では杯や椀は作れないのだから、杞柳の性には杯椀になるものがある。とはいえ、杯椀が杞柳のありのままの姿であろうか。(孟子の言う)惻隠や羞悪の心も、仁義が性に根ざすことを示しただけである。実際には惻隠だけでは仁を尽くせず、羞悪も必ずしも義にかなうとは限らない。言い立てが一方に偏れば、始めのわずかな差が千里の誤りになる。後世の心学はここに芽生えた。荀子がこれを非難したのは正しい。だから子思・孟子は孔子門下を外敵から守る役であり、荀子は子思・孟子の忠臣なのである。

解説

徂徠は古代の「聖」を、礼楽を作った制作者の名だと定義する。制作をしていない孔子を聖人とするために子思は「誠」を持ち出し、孟子は性善を説いたが、それは論争のための偏った言い方だったという。杞柳と杯の喩えで、材料に素質があっても器は人の手で作られると示す点に、作為を重んじる徂徠学の核がある。荀子を「思孟の忠臣」と呼ぶのも挑発的である。人は素質だけでは育たず、仕組みと型が要るという考えは、人材育成を設計する立場にそのまま通じる。

この章句が説くこと

聖人性善作為荀子孟子杞柳

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