晏子春秋 / 雑下・晏子病將死,妻問所欲言,云毋變爾俗/晏子病將死鑿楹納書命子壯而示之
晏子病,將死,其妻曰:「夫子無欲言乎?」晏子曰:「吾恐死而俗變。謹視爾家,毋變爾俗也。」晏子病,將死,鑿楹納書焉,謂其妻曰:「楹語也,子壯而示之。」及壯,發書,書之言曰:「布帛不可窮,窮不可飾;牛馬不可窮,窮不可服;士不可窮,窮不可任;國不可窮,窮不可竊也。」
新字:晏子病,将死,其妻曰:「夫子無欲言乎?」晏子曰:「吾恐死而俗変。謹視爾家,毋変爾俗也。」晏子病,将死,鑿楹納書焉,謂其妻曰:「楹語也,子壮而示之。」及壮,発書,書之言曰:「布帛不可窮,窮不可飾;牛馬不可窮,窮不可服;士不可窮,窮不可任;国不可窮,窮不可窃也。」
書き下し
晏子病み、将に死せんとす。其の妻曰く、「夫子言わんと欲する無きか」と。晏子曰く、「吾死して俗変ぜんことを恐る。謹んで爾の家を視、爾の俗を変うる毋かれ」と。晏子病み、将に死せんとし、楹を鑿ちて書を納れ、其の妻に謂いて曰く、「楹の語なり。子壮にして之を示せ」と。壮に及びて、書を発く。書の言に曰く、「布帛は窮む可からず、窮むれば飾る可からず。牛馬は窮む可からず、窮むれば服する可からず。士は窮む可からず、窮むれば任ず可からず。国は窮む可からず、窮むれば竊む可からざるなり」と。
現代語訳
晏子が病み、まさに死のうとするとき、妻が言いました。「あなたは言い残したいことはありませんか」。晏子は言いました。「私が死んで、家の風習が変わることが心配だ。家をよく見守り、あなたたちの風習を変えないように」。晏子が病んで死のうとするとき、柱に穴をうがって書を納め、妻に言いました。「柱の中の言葉だ。子が成長したら見せなさい」。成長してから書を取り出すと、書にはこうありました。「布や絹は使い尽くしてはならない。使い尽くせば飾りにできない。牛馬は使い尽くしてはならない。使い尽くせば乗り物にならない。士は追い詰めてはならない。追い詰めれば任せられない。国は困窮させてはならない。困窮すれば、これを保つことはできない」。
解説
この章句が説くこと
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