晏子春秋 / 雑下・楚王饗晏子進橘置削晏子不剖而食/晏子布衣棧車而朝田桓子侍景公飲酒請浮之
晏子曰:「君賜之卿位以顯其身,嬰非敢為顯受也,為行君令也;寵之百萬以富其家,嬰非敢為富受也,為通君賜也。臣聞古之賢君,臣有受厚賜,而不顧其困族,則過之。臨事守職,不勝其任,則過之。君之內隸,臣之父兄,若有離散,在於野鄙,此臣之罪也。君之外隸,臣之所職,若有播亡,在於四方,此臣之罪也。兵革之不完,戰車之不修:此臣之罪也。若夫弊車駑馬以朝,意者非臣之罪乎。且以君之賜,父之党,無不乘車者;母之党,無不足於衣食者;妻之党,無凍餒者;國之簡士,待臣而後舉火者數百家。如此者,為彰君賜乎?為隱君賜乎?」公曰,「善。為我浮無宇也。」
新字:晏子曰:「君賜之卿位以顕其身,嬰非敢為顕受也,為行君令也;寵之百万以富其家,嬰非敢為富受也,為通君賜也。臣聞古之賢君,臣有受厚賜,而不顧其困族,則過之。臨事守職,不勝其任,則過之。君之内隸,臣之父兄,若有離散,在於野鄙,此臣之罪也。君之外隸,臣之所職,若有播亡,在於四方,此臣之罪也。兵革之不完,戦車之不修:此臣之罪也。若夫弊車駑馬以朝,意者非臣之罪乎。且以君之賜,父之党,無不乗車者;母之党,無不足於衣食者;妻之党,無凍餒者;国之簡士,待臣而後舉火者数百家。如此者,為彰君賜乎?為隠君賜乎?」公曰,「善。為我浮無宇也。」
書き下し
晏子曰く、「君之に卿位を賜いて以て其の身を顕らかにするは、嬰敢えて顕らかなるが為に受くるに非ず、君令を行うが為なり。之に百万を寵して以て其の家を富ますは、嬰敢えて富むが為に受くるに非ず、君の賜を通ずるが為なり。臣聞く、古の賢君は、臣に厚賜を受くること有りて、其の困しむ族を顧みざれば、則ち之を過ちとし、事に臨みて職を守り、其の任に勝えざれば、則ち之を過ちとすと。君の内隷、臣の父兄、若し離散して、野鄙に在る有らば、此れ臣の罪なり。君の外隷、臣の職とする所、若し播亡して、四方に在る有らば、此れ臣の罪なり。兵革の完からず、戦車の修まらざる、此れ臣の罪なり。夫の弊車駑馬以て朝するが若きは、意うに臣の罪に非ざるか。且つ君の賜を以て、父の党、車に乗らざる者無く、母の党、衣食に足らざる者無く、妻の党、凍餒する者無し。国の簡士、臣を待ちて而る後に火を挙ぐる者数百家。此くの如き者は、君の賜を彰すと為さんか、君の賜を隠すと為さんか」と。公曰く、「善し。我が為に無宇を浮せよ」と。
現代語訳
晏子は言いました。「君が私に卿の位を賜って身を顕してくださったのは、私が自分を顕すために受けたのではなく、君のご命令を行うためです。百万の禄で家を富ませてくださったのも、私が富むために受けたのではなく、君の賜り物を通じて行き渡らせるためです。私はこう聞いております。昔の賢い君主は、臣下が厚い賜り物を受けながら、困っている一族を顧みなければこれを過ちとし、職務を守りながらその任に堪えなければこれも過ちとされたと。君の内向きの隷属の者で私の父兄にあたる者が、もし離散して田舎にいるなら、それは私の罪です。君の外向きの隷属の者で私の管轄にある者が、もし逃げ散って四方にいるなら、これも私の罪です。武具が整わず、戦車が修理されていないなら、これも私の罪です。粗末な車と鈍い馬で朝廷に来ることについては、思うに私の罪ではないでしょう。しかも君の賜りもののおかげで、父方の親族に車に乗らない者はなく、母方の親族に衣食に事欠く者はなく、妻方の親族に凍えたり飢えたりする者はいません。国の優れた士で、私を頼って煮炊きの火を起こせる者は数百家にのぼります。このようなことは、君の賜り物を彰すことでしょうか、隠すことでしょうか。」公は「もっともだ。私のために無宇に罰杯を飲ませよ」と言いました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・公孫丑章句下孟子、齊を去り、休に居る。公孫丑、問いて曰く、「仕えて祿を受けざるは、古の道か。」曰く、「非なり。崇に於いて、吾、王に見ゆるを得たり。退いて去る志有り。變ずるを欲せず。故に受けざるなり。繼いで師命有り。以て請う可からず。齊に久しきは、我が志に非ざるなり。」
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三略・上略軍讖に曰く、軍に財無ければ、士来たらず。軍に賞無ければ、士往かず、と。
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『講孟余話』滕文公下 第四章「志を食ましむるに非ず、功を食ましむるなり」。此の章の論此の二句にあり、而して食功の二字に帰す。其の論明白、復た弁を待たず。唯だ君の臣を養ひ、民の上に奉ずる、既に皆功に食ましむる為めなれば、是れに酬ゆる者将た如何すべき。日々三度の箸を把る毎に、此の食の徒食すべからざるを思ひ、又衣服に付きても居処に付きても器用に付きても、皆此の物徒らに着るべからず、徒らに居るべからず、徒らに用ふべからざるを思はば、豈放辟邪侈の念を生ぜんや。
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『墨子』公孟子墨子の門に游ぶ者有り、子墨子に謂いて曰く、「先生、鬼を以て神眀にして知り、能く人に禍いを為すと為すか」と。子墨子の門に游ぶ者有り、身體强良、思慮狥通なり。隨いて學ばしめんと欲す。子墨子曰く、「姑く學べ。吾れ将に子を仕えしめん」と。善言に勸められて學ぶ。其の年にして、仕えんことを子墨子に責む。子曰く、「子を仕えしめず。子も亦た夫の魯の語を聞かんか。昆弟五人なる者有り。其の父死して、其の長子、酒を嗜みて葬らず。其の四弟曰く、『子、我と葬らば、當に子の為に酒を沽うべし』と。善言に勸められて葬る。已に葬りて、酒を其の四弟に責む。四弟曰く、『吾れ未だ子に酒を予えず。子は子の父を葬り、我れは吾が父を葬る。豈に獨り吾が父ならんや。子、葬らずんば、則ち人、将に子を笑わんとす。故に子に葬るを勸めしなり』と。今、子は義を為し、我も亦た義を為す。豈に獨り我が義ならんや。子、學ばずんば、則ち人、将に子を笑わんとす。故に子に學を勸めしなり」と。
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『春秋左氏伝』閔公二年 衛の懿公、鶴を好む冬、十二月、狄人衛を伐つ。衛の懿公鶴を好み、鶴に軒に乘る者有り。將に戰はんとす。國人の甲を受くる者皆曰く、「鶴を使へ。鶴實に祿位有り、余焉んぞ能く戰はん」と。公石祁子に玦を與へ、甯莊子に矢を與へ、守らしめて、曰く、「此を以って國を贊けよ。利を擇びて之を爲せ」と。夫人に繡衣を與へて、曰く、「二子に聽け」と。渠孔戎に御し、子伯右と爲り、黃夷前驅し、孔嬰齊殿す。狄人と熒澤に戰ひ、衛の師敗績し、遂に衛を滅ぼす。衛侯其の旗を去らず、是を以って甚だしく敗る。狄人史華龍滑と禮孔とを囚へ、以って衛人を逐ふ。二人曰く、「我は、大史なり。實に其の祭を掌る。先んぜずんば、國得可からざるなり」と。乃ち之を先んぜしむ。至れば、則ち守に告げて曰く、「待つ可からざるなり」と。夜國人と出づ。狄衛に入り、遂に之に從ひ、又諸を河に敗る。
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史記 項羽本紀曰く、「此れ天下の辯士なり、居る所国を傾く、故に号して平国君と為す。」と。項王已に約し、乃ち兵を引きて解きて東帰す。漢西帰せんと欲す、張良・陳平説きて曰く、「漢天下の太半を有ち、而して諸侯皆之に附く。楚の兵罷れ食尽く、此れ天の楚を亡ぼすの時なり、其の機に因りて遂に之を取るに如かず。今釈きて撃たずんば、此れ所謂『虎を養ひて自ら患ひを遺す』なり。」と。漢王之を聴く。漢の五年、漢王乃ち項王を追ひて陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至り、而して信・越の兵会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして自ら守る。張子房に謂ひて曰く、「諸侯約に従はず、之を為すこと柰何。」と。対へて曰く、「楚の兵且に破れんとす、信・越未だ分地有らず、其の至らざること固より宜なり。君王能く与に天下を共分せば、今立ちどころに致すべきなり。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり。君王能く陳より以東海に傅(つ)くまでを、尽く韓信に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを、以て彭越に与へ、各々自ら戦ひを為さしめば、則ち楚敗り易きなり。」と。漢王曰く、「善し。」と。是に於て乃ち使者を発して韓信・彭越に告げて曰く、「力を并せて楚を撃て。楚破れば、陳より以東海に傅くまでを斉王に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを彭相国に与へん。」と。使者至る、韓信・彭越皆報じて曰く、「請ふ今兵を進めん。」と。韓信乃ち斉より往き、劉賈の軍寿春より并行し、城父を屠りて、垓下に至る。大司馬周殷楚に叛き、舒を以て六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随ひて皆垓下に会し、項王に詣る。項王の軍垓下に壁す、兵少なく食尽く、漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜漢の軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起きて、帳中に飲む。
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