晏子春秋 / 雑上・晏子遺北郭騷米以養母騷殺身以明晏子之賢
其友因奉以托,而謂復者曰:「此北郭子為國故死,吾將為北郭子死。」又退而自刎。景公聞之,大駭,乘馹而自追晏子,及之國郊,請而反之。晏子不得已而反,聞北郭子之以死白己也,太息而歎曰:「嬰之亡、豈不宜哉!亦愈不知士甚矣。」
新字:其友因奉以托,而謂復者曰:「此北郭子為国故死,吾将為北郭子死。」又退而自刎。景公聞之,大駭,乗馹而自追晏子,及之国郊,請而反之。晏子不得已而反,聞北郭子之以死白己也,太息而嘆曰:「嬰之亡、豈不宜哉!亦愈不知士甚矣。」
書き下し
其の友因りて奉じて以て托し、而して復する者に謂いて曰く、「此れ北郭子国の為の故に死す。吾将に北郭子の為に死せんとす」と。又た退きて自刎す。景公之を聞きて、大いに駭き、馹に乗りて自ら晏子を追い、国郊に及びて、請いて之を反らしむ。晏子已むを得ずして反り、北郭子の死を以て己を白すを聞き、太息して歎じて曰く、「嬰の亡ぶ、豈に宜ならずや。亦た愈いよ士を知らざること甚だし」と。
現代語訳
その友人は、頭を捧げて托し、取り次ぎの者に言いました。「この北郭子は、国のために死にました。私は北郭子のために死にます」。そう言って退き、自らも首をはねました。景公はこれを聞いて大いに驚き、早馬の車に乗って自ら晏子を追い、都の郊外で追いつき、頼んで引き返してもらいました。晏子はやむを得ず戻り、北郭子が死をもって自分の潔白を明かしたと聞くと、大きく息をついて嘆きました。「私が国を逃れるのも、当然ではないか。私は、ますます士を知らなさすぎる」。
解説
前の段の続きで、北郭子の首を托された友人も後を追って自刃する場面です。二人の死に景公は驚いて晏子を追い、郊外で引き返させました。晏子は戻ったものの、人の死で自分が救われたと聞き、ますます士を知らなかった自分を責めます。ここでの嘆きは、出奔のときと同じ言葉でありながら意味が深まっています。身近にいる人の覚悟に気づけなかった、という悔いです。組織の中でも、普段は目立たない人が、いざというときに大きな行動を取ることがあります。管理職は、日頃から一人ひとりの志に目を向け、見えていない部分があるという謙虚さを持つことが、人を知る第一歩になります。
この章句が説くこと
人を知る殉死景公の後悔追い戻す覚悟晏子春秋
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