晏子春秋 / 諫下・景公逐得斬竹者囚之晏子諫
景公樹竹,令吏謹守之。公出,過之,有斬竹者焉,公以車逐,得而拘之,將加罪焉。晏子入見,曰:「君亦聞吾先君丁公乎?」公曰:「何如?」晏子曰:「丁公伐曲城,勝之,止其財,出其民,公日自蒞之。有輿死人以出者,公怪之,令吏視之,則其中有金與玉焉。吏請殺其人,收其金玉。公曰:『以兵降城,以眾圖財,不仁。且吾聞之,君人者,寬惠慈眾,不身傳誅。』令舍之。」公曰:「善!」晏子退,公令出斬竹之囚。
新字:景公樹竹,令吏謹守之。公出,過之,有斬竹者焉,公以車逐,得而拘之,将加罪焉。晏子入見,曰:「君亦聞吾先君丁公乎?」公曰:「何如?」晏子曰:「丁公伐曲城,勝之,止其財,出其民,公日自莅之。有輿死人以出者,公怪之,令吏視之,則其中有金与玉焉。吏請殺其人,収其金玉。公曰:『以兵降城,以衆図財,不仁。且吾聞之,君人者,寛恵慈衆,不身伝誅。』令舎之。」公曰:「善!」晏子退,公令出斬竹之囚。
書き下し
景公、竹を樹え、吏をして謹みて之を守らしむ。公出でて之を過ぐるに、竹を斬る者有り。公、車を以て逐い、得て之を拘え、将に罪を加えんとす。晏子入り見えて曰く、「君、亦た吾が先君丁公を聞くか」と。公曰く、「何如」と。晏子曰く、「丁公、曲城を伐ちて、之に勝ち、其の財を止め、其の民を出だす。公は日々自ら之に蒞む。輿もて死人を以て出づる者有り。公、之を怪しみ、吏をして之を視しむるに、則ち其の中に金と玉有り。吏、其の人を殺して、其の金玉を収めんことを請う。公曰く、『兵を以て城を降し、衆を以て財を図るは、不仁なり。且つ吾之を聞く、人に君たる者は、寛恵慈衆にして、身ら誅を伝えず、と』。令して之を舎す」と。公曰く、「善し」と。晏子退く。公、斬竹の囚を出ださしむ。
現代語訳
景公は竹を植え、役人に命じて慎重に守らせていました。公が外出してその前を通りかかると、竹を切っている者がいました。公は車で追いかけて捕らえ、罪を加えようとしました。晏子が入って拝謁し、言いました。「君は私どもの先君、丁公のことをお聞きでしょうか」。公は「どういうことか」と尋ねました。晏子は言いました。「丁公は曲城を討って勝ち、財貨を押さえ、民を城から出しました。公は毎日自らその場に臨んでいました。あるとき、車に死人を乗せて出ていく者がいました。公は不審に思い、役人に調べさせると、その中に金と玉がありました。役人は、その者を殺して金玉を没収することを願い出ました。公は言いました。『武力で城を降し、大勢で財をねらうのは不仁である。しかも私はこう聞いている。人の君たる者は、寛大で恵み深く、民を慈しみ、自ら誅を行わない、と』。そう言ってその者を許されました」。公は「よろしい」と言い、晏子は退出しました。公は竹を切った囚人を出させました。
解説
この章句が説くこと
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『政談』戶籍の事当時も紀州水戸にては人かへしあり、肥前なとにては出家にても他国へゆき十年かへらねは親類みな刑せらると承はる、薩摩其外九州は多くは国中の民を外へは出たさす、当時これある例なれは地頭の威勢を以て呼ひかへさんにはたやすくなるへきことなり、当時諸国の民耕作を厭ひ、米の飯を喜ひ、百姓を棄て商人になる故に衰微したる村々多きこと度々承ることなり、されは地頭のためにも実は甚だよきことなれとも、いつれも文盲なる故この合点行かす、世界は斯の如く成り下りたるなり、
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尚書・君牙嗚呼(ああ)!丕いに顕らかなるかな、文王の謨。丕いに承くるかな、武王の烈。我が後人を啓き佑け、咸く正を以てして欠くる罔し。爾惟れ敬みて乃の訓を明らかにし、用て先王に奉じ若へ。文・武の光命に対揚し、前人に追配せよ。』王若のごとく曰く、『君牙よ、乃惟れ先正に由り、旧典時れ式れ、民の治乱は茲に在り。乃の祖考の行ふ攸に率ひ、乃の辟の乂むる有るを昭らかにせよ。』
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『重職心得箇条』第四条先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。
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『甲陽軍鑑』品第四十七其後仰出しには、彼落合彥助事曲淵に年こそおとりたりとも、武辺の事さのみおとる者にてなし、さるについて逍遥軒にとらせ候所に、曲淵が蔵前にて奉行どもに雑言の事赦免せしめてありとて、いつもさやう有べきと存、事下より上をはからふたる様子言語同断、口惜く思召し候、其上第一に彼彥助をあれほどの臆病者にて有べしとは御存知なし、
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『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
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『春秋左氏伝』昭公二十六年 王子朝の檄文天周を弔(あはれ)まず、王昏くして若(したが)はず、用って厥の位を愆(うしな)ふ。攜王(けいおう)命を奸(をか)す。諸侯之を替へて、王嗣を建て、用って郟鄏(こうじょく)に遷る。則ち是れ兄弟の能く力を王室に用ふるなり。惠王に至り、天周を靖んぜず、頹に禍心を生じ、叔帶に施(およ)ぶ。惠・襄難を辟け、王都を越え去る。則ち晉・鄭有りて、咸(みな)不端を黜け、以って王家を綏定す。則ち是れ兄弟の能く先王の命に率ふなり。定王の六年に在りて、秦人妖を降して曰く、『周其れ髭王有らん。亦た克く其の職を脩め、諸侯服享し、二世職を共にせん。王室其れ王位を間(うかが)ふもの有らん。諸侯圖らずして、其の亂災を受けん』と。靈王に至り、生まれながらにして髭有り。王甚だ神聖にして、諸侯に惡まるること無し。靈王・景王、克く其の世を終ふ。今王室亂る。單旗・劉狄、天下を剝亂し、壹に若はざるを行ひ、謂ふ、『先王何の常か之れ有らん。唯だ余が心の命ずる所なり。其れ誰か敢へて之を請はん』と。群不弔の人を帥ゐて、以って亂を王室に行ひ、侵欲厭くこと無く、規求度無し。
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