維摩経 / 文殊師利問疾品第五(7)
雖行六通而不盡漏。是菩薩行。雖行四無量心而不貪著生於梵世。是菩薩行。雖行禪定解脫三昧而不隨禪生。是菩薩行。雖行四念處而不永離身受心法。是菩薩行。雖行四正勤而不捨身心精進。是菩薩行。雖行四如意足而得自在神通。是菩薩行。雖行五根而分別眾生諸根利鈍。是菩薩行。雖行五力而樂求佛十力。是菩薩行。雖行七覺分而分別佛之智慧。是菩薩行。雖行八聖道而樂行無量佛道。是菩薩行。雖行止觀助道之法而不畢竟墮於寂滅。是菩薩行。雖行諸法不生不滅而以相好莊嚴其身。是菩薩行。雖現聲聞辟支佛威儀而不捨佛法。是菩薩行。雖隨諸法究竟淨相而隨所應為現其身。是菩薩行。雖觀諸佛國土永寂如空而現種種清淨佛土。是菩薩行。雖得佛道轉于法輪入於涅槃而不捨於菩薩之道。是菩薩行。 說是語時,文殊師利所將大眾。其中八千天子,皆發阿耨多羅三藐三菩提心。
新字:雖行六通而不尽漏。是菩薩行。雖行四無量心而不貪著生於梵世。是菩薩行。雖行禅定解脱三昧而不随禅生。是菩薩行。雖行四念処而不永離身受心法。是菩薩行。雖行四正勤而不捨身心精進。是菩薩行。雖行四如意足而得自在神通。是菩薩行。雖行五根而分別衆生諸根利鈍。是菩薩行。雖行五力而楽求仏十力。是菩薩行。雖行七覚分而分別仏之智慧。是菩薩行。雖行八聖道而楽行無量仏道。是菩薩行。雖行止観助道之法而不畢竟堕於寂滅。是菩薩行。雖行諸法不生不滅而以相好荘厳其身。是菩薩行。雖現声聞辟支仏威儀而不捨仏法。是菩薩行。雖随諸法究竟浄相而随所応為現其身。是菩薩行。雖観諸仏国土永寂如空而現種種清浄仏土。是菩薩行。雖得仏道転于法輪入於涅槃而不捨於菩薩之道。是菩薩行。 説是語時,文殊師利所将大衆。其中八千天子,皆発阿耨多羅三藐三菩提心。
書き下し
六通を行ずと雖も、而も漏を尽くさざるは、是れ菩薩の行なり。四無量心を行ずと雖も、而も梵世に生ずることを貪著せざるは、是れ菩薩の行なり。禅定・解脱・三昧を行ずと雖も、而も禅に随いて生ぜざるは、是れ菩薩の行なり。四念処を行ずと雖も、而も永く身・受・心・法を離れざるは、是れ菩薩の行なり。四正勤を行ずと雖も、而も身心の精進を捨てざるは、是れ菩薩の行なり。四如意足を行ずと雖も、而も自在の神通を得るは、是れ菩薩の行なり。五根を行ずと雖も、而も衆生の諸根の利鈍を分別するは、是れ菩薩の行なり。五力を行ずと雖も、而も仏の十力を楽求するは、是れ菩薩の行なり。七覚分を行ずと雖も、而も仏の智慧を分別するは、是れ菩薩の行なり。八聖道を行ずと雖も、而も無量の仏道を楽行するは、是れ菩薩の行なり。止観の助道の法を行ずと雖も、而も畢竟して寂滅に墮せざるは、是れ菩薩の行なり。諸法の不生不滅を行ずと雖も、而も相好を以て其の身を荘厳するは、是れ菩薩の行なり。声聞・辟支仏の威儀を現ずと雖も、而も仏法を捨てざるは、是れ菩薩の行なり。諸法の究竟浄相に随うと雖も、而も応ずる所に随いて為に其の身を現ずるは、是れ菩薩の行なり。諸仏の国土の永く寂なること空の如しと観ずと雖も、而も種種の清浄の仏土を現ずるは、是れ菩薩の行なり。仏道を得、法輪を転じ、涅槃に入ると雖も、而も菩薩の道を捨てざるは、是れ菩薩の行なり。 是の語を説く時、文殊師利の将いる所の大衆、其の中の八千の天子、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
現代語訳
六つの神通を行じながら、煩悩の漏れを尽くし切らないこと、これが菩薩の行いです。四無量心を行じながら、梵天の世界に生まれることに執着しないこと、これが菩薩の行いです。禅定・解脱・三昧を行じながら、禅定にしたがって生まれ変わることをしないこと、これが菩薩の行いです。四念処を行じながら、身・受・心・法から永久に離れないこと、これが菩薩の行いです。四正勤を行じながら、身心の努力を捨てないこと、これが菩薩の行いです。四如意足を行じながら、自在の神通を得ること、これが菩薩の行いです。五根を行じながら、衆生のさまざまな資質の鋭さと鈍さを見分けること、これが菩薩の行いです。五力を行じながら、仏の十力を願い求めること、これが菩薩の行いです。七覚分を行じながら、仏の智慧を見分けること、これが菩薩の行いです。八聖道を行じながら、無量の仏道を願い行うこと、これが菩薩の行いです。止観という道を助ける法を行じながら、最終的に寂滅に落ち込まないこと、これが菩薩の行いです。あらゆる法が生じも滅しもしないと行じながら、相好によって自らの身を荘厳すること、これが菩薩の行いです。声聞や辟支仏のふるまいを現しながら、仏の法を捨てないこと、これが菩薩の行いです。あらゆる法の究極の清らかな姿に従いながら、相手に応じてその身を現すこと、これが菩薩の行いです。諸仏の国土は永遠に静かで空のようだと観じながら、さまざまな清らかな仏国土を現すこと、これが菩薩の行いです。仏道を得て、法輪を転じ、涅槃に入っても、菩薩の道を捨てないこと、これが菩薩の行いです。 この言葉を説かれたとき、文殊師利が連れてきた大衆のうち、八千人の天子が、みな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こしました。
解説

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