維摩経 / 觀眾生品第七(2)
文殊師利言。若菩薩作是觀者。云何行慈。維摩詰言。菩薩作是觀已自念。我當為眾生說如斯法。是即真實慈也。行寂滅慈無所生故。行不熱慈無煩惱故。行等之慈等三世故。行無諍慈無所起故。行不二慈內外不合故行不壞慈畢竟盡故。行堅固慈心無毀故。行清淨慈諸法性淨故。行無邊慈如虛空故。行阿羅漢慈破結賊故。行菩薩慈安眾生故。行如來慈得如相故。行佛之慈覺眾生故。行自然慈無因得故。行菩提慈等一味故。行無等慈斷諸愛故。行大悲慈導以大乘故。行無厭慈觀空無我故。行法施慈無遺惜故。行持戒慈化毀禁故。行忍辱慈護彼我故。行精進慈荷負眾生故。行禪定慈不受味故。行智慧慈無不知時故。行方便慈一切示現故。行無隱慈直心清淨故。行深心慈無雜行故。行無誑慈不虛假故。行安樂慈令得佛樂故。菩薩之慈為若此也。
新字:文殊師利言。若菩薩作是観者。云何行慈。維摩詰言。菩薩作是観已自念。我当為衆生説如斯法。是即真実慈也。行寂滅慈無所生故。行不熱慈無煩悩故。行等之慈等三世故。行無諍慈無所起故。行不二慈内外不合故行不壊慈畢竟尽故。行堅固慈心無毀故。行清浄慈諸法性浄故。行無辺慈如虚空故。行阿羅漢慈破結賊故。行菩薩慈安衆生故。行如来慈得如相故。行仏之慈覚衆生故。行自然慈無因得故。行菩提慈等一味故。行無等慈断諸愛故。行大悲慈導以大乗故。行無厭慈観空無我故。行法施慈無遺惜故。行持戒慈化毀禁故。行忍辱慈護彼我故。行精進慈荷負衆生故。行禅定慈不受味故。行智慧慈無不知時故。行方便慈一切示現故。行無隠慈直心清浄故。行深心慈無雑行故。行無誑慈不虚仮故。行安楽慈令得仏楽故。菩薩之慈為若此也。
書き下し
文殊師利の言わく、若し菩薩是の観を作さば、云何が慈を行ずるや。維摩詰の言わく、菩薩是の観を作し已りて自ら念ず、我当に衆生の為に斯くの如き法を説くべし、と。是れ即ち真実の慈なり。寂滅の慈を行ず、生ずる所無きが故に。不熱の慈を行ず、煩悩無きが故に。等の慈を行ず、三世に等しきが故に。無諍の慈を行ず、起こる所無きが故に。不二の慈を行ず、内外合せざるが故に。不壊の慈を行ず、畢竟尽くるが故に。堅固の慈を行ず、心毀つこと無きが故に。清浄の慈を行ず、諸法の性浄きが故に。無辺の慈を行ず、虚空の如きが故に。阿羅漢の慈を行ず、結の賊を破るが故に。菩薩の慈を行ず、衆生を安んずるが故に。如来の慈を行ず、如相を得るが故に。仏の慈を行ず、衆生を覚らしむるが故に。自然の慈を行ず、因無くして得るが故に。菩提の慈を行ず、等しく一味なるが故に。無等の慈を行ず、諸の愛を断つが故に。大悲の慈を行ず、導くに大乗を以てするが故に。無厭の慈を行ず、空・無我を観ずるが故に。法施の慈を行ず、遺し惜しむこと無きが故に。持戒の慈を行ず、毀禁を化するが故に。忍辱の慈を行ず、彼我を護るが故に。精進の慈を行ず、衆生を荷負するが故に。禅定の慈を行ず、味を受けざるが故に。智慧の慈を行ず、知らざる時無きが故に。方便の慈を行ず、一切に示現するが故に。無隠の慈を行ず、直心清浄なるが故に。深心の慈を行ず、雑行無きが故に。無誑の慈を行ず、虚仮ならざるが故に。安楽の慈を行ず、仏の楽を得しむるが故に。菩薩の慈、此くの若しと為すなり。
現代語訳
文殊師利が言いました。菩薩がこのように衆生を観じたなら、慈をどのように行うのですか。維摩詰は答えました。菩薩はこのように観じたあと、自分で思います。私は衆生のために、このような法を説こう、と。これがそのまま真実の慈です。寂滅の慈を行います。生じるものがないからです。不熱の慈を行います。煩悩がないからです。等しい慈を行います。過去・現在・未来に等しいからです。争いのない慈を行います。争いの起こる所がないからです。不二の慈を行います。内と外が合わさらないからです。壊れない慈を行います。究極においてすべてが尽きるからです。堅固な慈を行います。心が損なわれないからです。清浄な慈を行います。あらゆる存在の本性が清らかだからです。限りない慈を行います。虚空のようだからです。阿羅漢の慈を行います。煩悩の賊を破るからです。菩薩の慈を行います。衆生を安らかにするからです。如来の慈を行います。如の相を得るからです。仏の慈を行います。衆生を覚らせるからです。自然の慈を行います。原因なしに得られるからです。菩提の慈を行います。等しく一味だからです。比べるもののない慈を行います。さまざまな愛着を断つからです。大悲の慈を行います。大乗へと導くからです。倦まない慈を行います。空と無我を観じているからです。法施の慈を行います。惜しんで残すことがないからです。持戒の慈を行います。戒を破る者を教え導くからです。忍辱の慈を行います。相手も自分も守るからです。精進の慈を行います。衆生を背負うからです。禅定の慈を行います。味わいに執着しないからです。智慧の慈を行います。知らないときがないからです。方便の慈を行います。あらゆる姿で現れるからです。隠しだてのない慈を行います。素直な心が清らかだからです。深い心の慈を行います。雑念の行いがないからです。偽りのない慈を行います。うそ偽りがないからです。安楽の慈を行います。衆生に仏の楽しみを得させるからです。菩薩の慈とは、このようなものです。
解説

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