維摩経 / 菩薩品第四(7)
解眾生縛起修行地。以具相好及淨佛土起福德業。知一切眾生心念如應說法起於智業。知一切法不取不捨。入一相門起於慧業。斷一切煩惱一切障礙一切不善法起一切善業以得一切智慧一切善法。起於一切助佛道法。如是善男子。是為法施之會。若菩薩住是法施會者。為大施主。亦為一切世間福田。世尊。維摩詰說是法時。婆羅門眾中二百人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。我時心得清淨歎未曾有。稽首禮維摩詰足。即解瓔珞價直百千。以上之。不肯取。我言居士。願必納受隨意所與。維摩詰乃受瓔珞分作二分。持一分施此會中一最下乞人。持一分奉彼難勝如來。一切眾會皆見光明國土難勝如來。又見珠瓔在彼佛上變成四柱寶臺四面嚴飾不相障蔽。時維摩詰。現神變已作是言。若施主等心施一最下乞人。猶如如來福田之相無所分別。等于大悲不求果報。是則名曰具足法施。城中一最下乞人。見是神力聞其所說。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾。如是諸菩薩各各向佛說其本緣。稱述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾。
新字:解衆生縛起修行地。以具相好及浄仏土起福徳業。知一切衆生心念如応説法起於智業。知一切法不取不捨。入一相門起於慧業。断一切煩悩一切障礙一切不善法起一切善業以得一切智慧一切善法。起於一切助仏道法。如是善男子。是為法施之会。若菩薩住是法施会者。為大施主。亦為一切世間福田。世尊。維摩詰説是法時。婆羅門衆中二百人皆発阿耨多羅三藐三菩提心。我時心得清浄嘆未曽有。稽首礼維摩詰足。即解瓔珞価直百千。以上之。不肯取。我言居士。願必納受随意所与。維摩詰乃受瓔珞分作二分。持一分施此会中一最下乞人。持一分奉彼難勝如来。一切衆会皆見光明国土難勝如来。又見珠瓔在彼仏上変成四柱宝台四面厳飾不相障蔽。時維摩詰。現神変已作是言。若施主等心施一最下乞人。猶如如来福田之相無所分別。等于大悲不求果報。是則名曰具足法施。城中一最下乞人。見是神力聞其所説。皆発阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾。如是諸菩薩各各向仏説其本縁。称述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾。
書き下し
衆生の縛を解きて修行地を起こし、相好及び浄仏土を具うるを以て福徳の業を起こし、一切衆生の心念を知りて応ずるが如く法を説きて智業を起こし、一切法の取らず捨てざるを知りて一相門に入り慧業を起こし、一切の煩悩・一切の障礙・一切の不善法を断じて一切の善業を起こし、以て一切の智慧・一切の善法を得て、一切の仏道を助くる法を起こす。是の如し、善男子。是れを法施の会と為す。若し菩薩、是の法施の会に住せば、大施主と為り、亦一切世間の福田と為る」と。世尊、維摩詰の是の法を説きし時、婆羅門衆の中の二百人、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。我れ時に心清浄を得て、未曾有なりと歎じ、維摩詰の足を稽首して礼し、即ち瓔珞の価直百千なるを解きて、以て之に上る。取ることを肯んぜず。我言わく、「居士、願わくは必ず納受して、意に随いて与うる所にせよ」と。維摩詰乃ち瓔珞を受け、分けて二分と作し、一分を持して此の会の中の一最下の乞人に施し、一分を持して彼の難勝如来に奉る。一切の衆会、皆光明国土の難勝如来を見る。又、珠瓔の彼の仏の上に在りて、変じて四柱の宝台と成り、四面に厳飾して相い障蔽せざるを見る。時に維摩詰、神変を現じ已りて是の言を作す、「若し施主等、心を等しくして一最下の乞人に施すこと、猶お如来の福田の相の如くして分別する所無く、大悲に等しくして果報を求めざれば、是れ則ち名づけて具足せる法施と曰う」と。城中の一最下の乞人、是の神力を見、其の説く所を聞きて、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。故に我は彼に詣りて疾を問うに任せず」と。是の如く諸の菩薩、各各仏に向かいて其の本縁を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆曰わく、彼に詣りて疾を問うに任せず、と。
現代語訳
衆生の束縛を解くことから修行の境地を起こし、すぐれた相好と清らかな仏国土を備えることから福徳の行いを起こし、すべての衆生の心の思いを知って、それに応じて法を説くことから智の行いを起こし、すべての法を取らず捨てないと知って一相の門に入ることから慧の行いを起こし、すべての煩悩、すべてのさわり、すべての不善の法を断って、あらゆる善の行いを起こし、そうしてあらゆる智慧とあらゆる善い法を得て、あらゆる仏道を助ける法を起こします。このとおりです、善男子よ。これが法の施しの会です。もし菩薩がこの法の施しの会にとどまるなら、大いなる施主となり、またすべての世間の福田ともなります。』世尊、維摩詰がこの法を説いたとき、バラモンたちの中の二百人が、みな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こしました。私はそのとき心が清らかになり、これまでにないことだと感嘆して、維摩詰の足に頭を下げて礼をし、すぐに値が百千もする首飾りを外して、彼に差し上げました。しかし彼は受け取ろうとしません。私は言いました。『居士よ、どうかぜひお受け取りください。お心のままにお使いください。』維摩詰はそこで首飾りを受け取り、二つに分けて、一つを会の中の最も身分の低い乞食の人に施し、もう一つを遠い難勝如来に捧げました。集まった人々はみな、光明国土にいる難勝如来を見ました。さらに、その真珠の首飾りが仏の上にあって、四本の柱を持つ宝の台に変わり、四方が飾られて、互いに邪魔し合わないのを見ました。そのとき維摩詰は神通による変化を現し終えて、こう言いました。『もし施主たちが、心を平等にして、最も身分の低い乞食の人に施すなら、それは如来という福田に施すのと同じ姿であって、分け隔てるところがありません。大いなる悲に等しく、見返りを求めないなら、これを、満ち足りた法の施しと名づけます。』城中の最も身分の低い乞食の人も、この神通力を見て、維摩詰の説くところを聞き、みな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こしました。こうした次第で、私は彼のもとへ見舞いに行くことに堪えません。」このようにして多くの菩薩たちが、それぞれ仏に向かって自分のいきさつを語り、維摩詰の言葉をたたえて、みな、彼のもとへ見舞いに行くことに堪えない、と申し上げました。
解説

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維摩経・菩薩品第四(6)仏、長者の子善徳に告げたまわく、「汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え」と。善徳、仏に白して言さく、「世尊、我は彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに我れ昔、自ら父の舎に於いて大施会を設け、一切の沙門・婆羅門及び諸の外道・貧窮・下賤・孤独・乞人を供養す。期は七日を満たす。時に維摩詰来たりて会の中に入り、我に謂いて言わく、『長者の子よ、夫れ大施会は、当に汝が設くる所の如くなるべからず。当に法施の会を為すべし。何ぞ是の財施の会を用いんや』と。我言わく、『居士、何をか法施の会と謂う』と。答えて曰わく、『法施の会とは、前無く後無く、一時に一切衆生を供養す。是れを法施の会と名づく』と。曰わく、『何の謂ぞや』と。『謂わく、菩提を以て慈心を起こし、衆生を救うを以て大悲心を起こし、正法を持つを以て喜心を起こし、智慧を摂するを以て捨心を行ず。慳貪を摂するを以て檀波羅蜜を起こし、犯戒を化するを以て尸羅波羅蜜を起こし、無我法を以て羼提波羅蜜を起こし、身心の相を離るるを以て毘梨耶波羅蜜を起こし、菩提の相を以て禅波羅蜜を起こし、一切智を以て般若波羅蜜を起こす。衆生を教化して空を起こし、有為の法を捨てずして無相を起こし、受生を示現して無作を起こし、正法を護持して方便力を起こし、衆生を度するを以て四摂法を起こし、一切を敬事するを以て慢を除く法を起こし、身命財に於いて三堅法を起こし、六念の中に於いて思念の法を起こし、六和敬に於いて質直の心を起こし、正しく善法を行じて浄命を起こし、心浄く歓喜して賢聖に近づくを起こし、悪人を憎まずして調伏の心を起こし、出家の法を以て深心を起こし、説の如く行ずるを以て多聞を起こし、無諍の法を以て空閑処を起こし、仏慧に趣向して宴坐を起こす。
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維摩経・菩薩品第四(5)忍辱柔和を楽しみ、勤めて善根を集むるを楽しみ、禅定不乱を楽しみ、垢を離れ慧を明らかにするを楽しみ、菩提心を広むるを楽しみ、衆魔を降伏するを楽しみ、諸の煩悩を断ずるを楽しみ、仏の国土を浄むるを楽しみ、相好を成就せんが為の故に諸の功徳を修するを楽しみ、道場を厳るを楽しみ、深法を聞きて畏れざるを楽しみ、三脱門を楽しみて非時を楽しまず、同学に近づくを楽しみ、同学に非ざる中に於いて心に恚礙無きを楽しみ、悪知識を将護するを楽しみ、善知識に親近するを楽しみ、心の喜び清浄なるを楽しみ、無量の道品の法を修するを楽しむ。是れを菩薩の法楽と為す』と。是に於いて波旬、諸の女に告ぐ、『我れ汝と俱に天宮に還らんと欲す』と。諸の女言わく、『我らを以て此の居士に与えたり。法楽有りて我ら甚だ楽しむ。復た五欲の楽を楽しまず』と。魔言わく、『居士、此の女を捨つべし。一切の所有を彼に施す者、是れを菩薩と為す』と。維摩詰言わく、『我れ已に捨てたり。汝便ち将い去れ。一切衆生をして法願具足することを得しめよ』と。是に於いて諸の女、維摩詰に問う、『我ら云何ぞ魔宮に止まらん』と。維摩詰言わく、『諸姊、法門有り、無尽灯と名づく。汝ら当に学ぶべし。無尽灯とは、譬えば一灯の百千の灯を燃やし、冥き者皆明らかなるが如し。明は終に尽きず。是の如し、諸姊。夫れ一菩薩、百千の衆生を開導して、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむるも、其の道意に於いても亦滅尽せず。説く所の法に随いて自ら一切の善法を増益す。是れを無尽灯と名づくるなり。汝ら魔宮に住すと雖も、是の無尽灯を以て、無数の天子天女をして阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむる者は、仏恩に報いんが為にして、亦大いに一切衆生を饒益するなり』と。爾の時天女、頭面に維摩詰の足を礼し、魔に随いて宮に還り、忽然として現ぜず。世尊、維摩詰に是の如き自在の神力・智慧・弁才有り。故に我は彼に詣りて疾を問うに任せず」と。
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