維摩経 / 方便品第二(4)
諸仁者。此可患厭當樂佛身。所以者何。佛身者即法身也。從無量功德智慧生。從戒定慧解脫解脫知見生。從慈悲喜捨生。從布施持戒忍辱柔和勤行精進禪定解脫三昧多聞智慧諸波羅蜜生。從方便生。從六通生。從三明生。從三十七道品生。從止觀生。從十力四無所畏十八不共法生。從斷一切不善法集一切善法生。從真實生。從不放逸生。從如是無量清淨法生如來身。諸仁者。欲得佛身斷一切眾生病者。當發阿耨多羅三藐三菩提心。如是長者維摩詰。為諸問疾者如應說法。令無數千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。
新字:諸仁者。此可患厭当楽仏身。所以者何。仏身者即法身也。従無量功徳智慧生。従戒定慧解脱解脱知見生。従慈悲喜捨生。従布施持戒忍辱柔和勤行精進禅定解脱三昧多聞智慧諸波羅蜜生。従方便生。従六通生。従三明生。従三十七道品生。従止観生。従十力四無所畏十八不共法生。従断一切不善法集一切善法生。従真実生。従不放逸生。従如是無量清浄法生如来身。諸仁者。欲得仏身断一切衆生病者。当発阿耨多羅三藐三菩提心。如是長者維摩詰。為諸問疾者如応説法。令無数千人皆発阿耨多羅三藐三菩提心。
書き下し
諸の仁者、此れは患厭すべし、当に仏身を楽うべし。所以は何ん。仏身とは即ち法身なり。無量の功徳智慧より生じ、戒・定・慧・解脱・解脱知見より生じ、慈悲喜捨より生じ、布施・持戒・忍辱・柔和・勤行精進・禅定・解脱・三昧・多聞・智慧の諸の波羅蜜より生ず。方便より生じ、六通より生じ、三明より生じ、三十七道品より生じ、止観より生じ、十力・四無所畏・十八不共法より生じ、一切の不善の法を断じ一切の善法を集むることより生じ、真実より生じ、不放逸より生ず。是くの如き無量の清浄の法より如来の身を生ず。諸の仁者、仏身を得て一切衆生の病を断ぜんと欲する者は、当に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。是くの如く長者維摩詰、諸の問疾の者の為に、応ずるに如く法を説き、無数千人をして皆阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
現代語訳
皆さん、この身は厭い離れるべきものです。そして、仏の身を願い求めなさい。なぜなら、仏の身とは、すなわち法身だからです。それは、無量の功徳と智慧から生まれ、戒、定、慧、解脱、解脱知見から生まれ、慈悲喜捨から生まれ、布施、持戒、忍辱、柔和、努めて励む精進、禅定、解脱、三昧、多聞、智慧という諸々の完成から生まれます。方便から生まれ、六通から生まれ、三明から生まれ、三十七道品から生まれ、止観から生まれ、十力、四無所畏、十八不共法から生まれ、あらゆる不善の法を断ち、あらゆる善の法を集めることから生まれ、真実から生まれ、怠けないことから生まれます。このような無量の清らかな法から、如来の身が生まれるのです。皆さん、仏の身を得て、すべての衆生の病を断ちたいと願う者は、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こしなさい。このように長者の維摩詰は、見舞いに来た人々のために、それぞれにふさわしく法を説き、数え切れない人々に、皆、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こさせました。
解説

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維摩経・方便品第二(3)其の方便を以て身に疾有るを現ず。其の疾を以ての故に、国王・大臣・長者・居士・婆羅門等、及び諸の王子并びに餘の官属、無数千人、皆往きて疾を問う。其の往く者に、維摩詰、身の疾に因りて広く為に法を説く。諸の仁者、是の身は無常にして、強無く力無く堅無し。速やかに朽つる法にして信ずべからざるなり。苦と為し悩と為し、衆病の集まる所なり。諸の仁者、此くの如き身は、明智の者の怙まざる所なり。是の身は聚沫の如く、撮摩すべからず。是の身は泡の如く、久しく立つを得ず。是の身は炎の如く、渇愛より生ず。是の身は芭蕉の如く、中に堅有ること無し。是の身は幻の如く、顚倒より起こる。是の身は夢の如く、虚妄の見たり。是の身は影の如く、業縁より現ず。是の身は響の如く、諸の因縁に属す。是の身は浮雲の如く、須臾に変滅す。是の身は電の如く、念念に住せず。是の身は主無く、地の如しと為す。是の身は我無く、火の如しと為す。是の身は寿無く、風の如しと為す。是の身は人無く、水の如しと為す。是の身は不実にして、四大を家と為す。是の身は空と為し、我・我所を離る。是の身は無知にして、草木・瓦礫の如し。是の身は無作にして、風力の転ずる所なり。是の身は不浄にして、穢悪充満す。是の身は虚偽と為す。仮に澡浴・衣食を以てすと雖も、必ず磨滅に帰す。是の身は災と為し、百一の病悩あり。是の身は丘井の如く、老に逼らる。是の身は無定にして、要ず当に死すべしと為す。是の身は毒蛇の如く、怨賊の如く、空聚の如し。陰・界・諸入の共に合して成す所なり。
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維摩経・菩薩品第四(7)衆生の縛を解きて修行地を起こし、相好及び浄仏土を具うるを以て福徳の業を起こし、一切衆生の心念を知りて応ずるが如く法を説きて智業を起こし、一切法の取らず捨てざるを知りて一相門に入り慧業を起こし、一切の煩悩・一切の障礙・一切の不善法を断じて一切の善業を起こし、以て一切の智慧・一切の善法を得て、一切の仏道を助くる法を起こす。是の如し、善男子。是れを法施の会と為す。若し菩薩、是の法施の会に住せば、大施主と為り、亦一切世間の福田と為る」と。世尊、維摩詰の是の法を説きし時、婆羅門衆の中の二百人、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。我れ時に心清浄を得て、未曾有なりと歎じ、維摩詰の足を稽首して礼し、即ち瓔珞の価直百千なるを解きて、以て之に上る。取ることを肯んぜず。我言わく、「居士、願わくは必ず納受して、意に随いて与うる所にせよ」と。維摩詰乃ち瓔珞を受け、分けて二分と作し、一分を持して此の会の中の一最下の乞人に施し、一分を持して彼の難勝如来に奉る。一切の衆会、皆光明国土の難勝如来を見る。又、珠瓔の彼の仏の上に在りて、変じて四柱の宝台と成り、四面に厳飾して相い障蔽せざるを見る。時に維摩詰、神変を現じ已りて是の言を作す、「若し施主等、心を等しくして一最下の乞人に施すこと、猶お如来の福田の相の如くして分別する所無く、大悲に等しくして果報を求めざれば、是れ則ち名づけて具足せる法施と曰う」と。城中の一最下の乞人、是の神力を見、其の説く所を聞きて、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。故に我は彼に詣りて疾を問うに任せず」と。是の如く諸の菩薩、各各仏に向かいて其の本縁を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆曰わく、彼に詣りて疾を問うに任せず、と。
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維摩経・菩薩品第四(6)仏、長者の子善徳に告げたまわく、「汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え」と。善徳、仏に白して言さく、「世尊、我は彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに我れ昔、自ら父の舎に於いて大施会を設け、一切の沙門・婆羅門及び諸の外道・貧窮・下賤・孤独・乞人を供養す。期は七日を満たす。時に維摩詰来たりて会の中に入り、我に謂いて言わく、『長者の子よ、夫れ大施会は、当に汝が設くる所の如くなるべからず。当に法施の会を為すべし。何ぞ是の財施の会を用いんや』と。我言わく、『居士、何をか法施の会と謂う』と。答えて曰わく、『法施の会とは、前無く後無く、一時に一切衆生を供養す。是れを法施の会と名づく』と。曰わく、『何の謂ぞや』と。『謂わく、菩提を以て慈心を起こし、衆生を救うを以て大悲心を起こし、正法を持つを以て喜心を起こし、智慧を摂するを以て捨心を行ず。慳貪を摂するを以て檀波羅蜜を起こし、犯戒を化するを以て尸羅波羅蜜を起こし、無我法を以て羼提波羅蜜を起こし、身心の相を離るるを以て毘梨耶波羅蜜を起こし、菩提の相を以て禅波羅蜜を起こし、一切智を以て般若波羅蜜を起こす。衆生を教化して空を起こし、有為の法を捨てずして無相を起こし、受生を示現して無作を起こし、正法を護持して方便力を起こし、衆生を度するを以て四摂法を起こし、一切を敬事するを以て慢を除く法を起こし、身命財に於いて三堅法を起こし、六念の中に於いて思念の法を起こし、六和敬に於いて質直の心を起こし、正しく善法を行じて浄命を起こし、心浄く歓喜して賢聖に近づくを起こし、悪人を憎まずして調伏の心を起こし、出家の法を以て深心を起こし、説の如く行ずるを以て多聞を起こし、無諍の法を以て空閑処を起こし、仏慧に趣向して宴坐を起こす。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(5)是の如く老病死を兼ね除く者は、菩薩の謂いなり。彼の有疾の菩薩は、応に復た是の念を作すべし。我が此の病の如く、非真非有なり。衆生の病も亦た非真非有なり。是の観を作す時、諸の衆生に於いて若し愛見の大悲を起こさば、即ち応に捨離すべし。所以は何ん。菩薩は客塵の煩悩を断除して大悲を起こす。愛見の悲とは、則ち生死に於いて疲厭の心有り。若し能く此れを離るれば疲厭有ること無く、在在の所生に愛見の覆う所と為らず。所生に縛無くして、能く衆生の為に法を説きて縛を解く。仏の説きたまう所の如し、若し自ら縛有れば能く彼の縛を解くこと、是の処有ること無し。若し自ら縛無くば、能く彼の縛を解くこと、斯の処有り。是の故に菩薩は縛を起こすべからず。何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著するは是れ菩薩の縛なり。方便を以て生ずるは是れ菩薩の解なり。又、方便無き慧は縛、方便有る慧は解、慧無き方便は縛、慧有る方便は解なり。何をか方便無き慧の縛と謂う。謂わく、菩薩、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就し、空・無相・無作の法の中に於いて自ら調伏するを、是れを方便無き慧の縛と名づく。何をか方便有る慧の解と謂う。謂わく、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就せず、空・無相・無作の法の中に於いて、自ら調伏するを以て而も疲厭せざるを、是れを方便有る慧の解と名づく。何をか慧無き方便の縛と謂う。謂わく、菩薩、貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩に住して、而も衆の徳本を植うるを、是れを慧無き方便の縛と名づく。何をか慧有る方便の解と謂う。謂わく、諸の貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩を離れて、而も衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するを、是れを慧有る方便の解と名づく。文殊師利、彼の有疾の菩薩は、応に是の如く諸法を観ずべし。又復た身は無常・苦・空・非我なりと観ずる、是れを慧と為す。身に疾有りと雖も常に生死に在りて、一切を饒益して厭倦せざる、是れを方便と為す。又復た身を観るに、身は病を離れず、病は身を離れず。是の病、是の身、新に非ず故に非ずと観ずる、是れを慧と為す。設い身に疾有るも永く滅せざる、是れを方便と為す。
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維摩経・文殊師利問疾品第五(4)文殊師利言わく、「居士、有疾の菩薩は云何が其の心を調伏する」と。維摩詰言わく、「有疾の菩薩は応に是の念を作すべし。今、我が此の病は皆前世の妄想顛倒、諸の煩悩より生ず。実法有ること無し、誰か病を受くる者ならん。所以は何ん。四大合するが故に仮に名づけて身と為す。四大に主無く、身にも亦我無し。又、此の病の起こるは皆我に著するに由る。是の故に我に於いて応に著を生ずべからず。既に病の本を知らば、即ち我想及び衆生想を除き、当に法想を起こすべし。応に是の念を作すべし、但だ衆法を以て此の身を合成す。起こるは唯だ法の起こるのみ、滅するは唯だ法の滅するのみ。又、此の法は各おの相知らず。起こる時に我起こると言わず、滅する時に我滅すと言わず。彼の有疾の菩薩は法想を滅せんが為に、当に是の念を作すべし、此の法想なる者も亦是れ顛倒なり。顛倒なる者は是れ即ち大患なり。我れ応に之を離るべし。云何が離るると為す。我・我所を離る。云何が我・我所を離る。謂わく二法を離る。云何が二法を離る。謂わく内外の諸法を念ぜずして平等を行ず。云何が平等なる。我等しく涅槃等しきと為す。所以は何ん。我及び涅槃、此の二は皆空なればなり。何を以て空と為す。但だ名字を以ての故に空なり。此の如き二法は決定の性無し。是の平等を得れば余の病有ること無く、唯だ空病有り。空病も亦空なり。是の有疾の菩薩は、受くる所無きを以て而も諸受を受く。未だ仏法を具せずと雖も、亦た受を滅して証を取らず。設い身に苦有らば、悪趣の衆生を念じて大悲心を起こす。我れ既に調伏せり、亦当に一切衆生を調伏すべし。但だ其の病を除きて、法を除かず。病の本を断たんが為に之を教導す。何をか病の本と謂う。謂わく攀縁有るなり。攀縁有るに従りて則ち病の本と為る。何の所にか攀縁する。之を三界と謂う。云何が攀縁を断つ。無所得を以てす。若し無所得なれば則ち攀縁無し。何をか無所得と謂う。謂わく二見を離るるなり。何をか二見と謂う。謂わく内見外見、是れ無所得なり。文殊師利、是れを有疾の菩薩の其の心を調伏すと為す。老病死の苦を断ぜんが為なるは是れ菩薩の菩提なり。若し是の如くならずんば己が修治する所は慧利無しと為す。譬えば怨に勝ちて乃ち勇と為す可きが如し」と。
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維摩経・菩薩品第四(3)仏、光厳童子に告げたまわく、「汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え」と。光厳、仏に白して言さく、「世尊、我は彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに我れ昔、毘耶離大城を出づるに、時に維摩詰方に城に入る。我即ち為に礼を作して問いて言わく、『居士、何れの所より来たる』と。我に答えて言わく、『吾れ道場より来たる』と。我れ問う、『道場とは何れの所ぞ是れなる』と。答えて曰わく、『直心は是れ道場なり、虚仮無きが故に。発行は是れ道場なり、能く事を辦ずるが故に。深心は是れ道場なり、功徳を増益するが故に。菩提心は是れ道場なり、錯謬無きが故に。布施は是れ道場なり、報いを望まざるが故に。持戒は是れ道場なり、願を得て具うるが故に。忍辱は是れ道場なり、諸の衆生に於いて心に礙無きが故に。精進は是れ道場なり、懈退せざるが故に。禅定は是れ道場なり、心調柔なるが故に。智慧は是れ道場なり、諸法を現見するが故に。慈は是れ道場なり、衆生に等しきが故に。悲は是れ道場なり、疲苦を忍ぶが故に。喜は是れ道場なり、法を悦楽するが故に。捨は是れ道場なり、憎愛断ずるが故に。神通は是れ道場なり、六通を成就するが故に。解脱は是れ道場なり、能く背捨するが故に。方便は是れ道場なり、衆生を教化するが故に。四摂は是れ道場なり、衆生を摂するが故に。多聞は是れ道場なり、聞くが如く行ずるが故に。伏心は是れ道場なり、正しく諸法を観ずるが故に。三十七品は是れ道場なり、有為の法を捨つるが故に。諦は是れ道場なり、世間を誑かさざるが故に。縁起は是れ道場なり、無明乃至老死皆尽くること無きが故に。諸の煩悩は是れ道場なり、如実を知るが故に。衆生は是れ道場なり、無我を知るが故に。一切法は是れ道場なり、諸法の空なることを知るが故に。降魔は是れ道場なり、傾動せざるが故に。三界は是れ道場なり、趣く所無きが故に。師子吼は是れ道場なり、畏るる所無きが故に。力・無畏・不共法は是れ道場なり、諸の過無きが故に。三明は是れ道場なり、余の礙無きが故に。一念に一切法を知るは是れ道場なり、一切智を成就するが故に。是の如し、善男子。菩薩若し諸の波羅蜜に応じて衆生を教化せば、諸の所作有り、足を挙げ足を下ろすも、当に知るべし、皆道場より来たりて仏法に住するなり』と。是の法を説きし時、五百の天人、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。故に我は彼に詣りて疾を問うに任せず」と。