維摩経 / 弟子品第三(1)
爾時長者維摩詰自念。寢疾于床。世尊大慈寧不垂愍。佛知其意。即告舍利弗。汝行詣維摩詰問疾。舍利弗白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔曾於林中宴坐樹下。時維摩詰來謂我言。唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐。不起滅定而現諸威儀。是為宴坐。不捨道法而現凡夫事。是為宴坐。心不住內亦不在外。是為宴坐。於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐。不斷煩惱而入涅槃。是為宴坐。若能如是坐者。佛所印可。時我世尊。聞說是語默然而止不能加報。故我不任詣彼問疾。
新字:爾時長者維摩詰自念。寝疾于床。世尊大慈寧不垂愍。仏知其意。即告舎利弗。汝行詣維摩詰問疾。舎利弗白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔曽於林中宴坐樹下。時維摩詰来謂我言。唯舎利弗。不必是坐為宴坐也。夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐。不起滅定而現諸威儀。是為宴坐。不捨道法而現凡夫事。是為宴坐。心不住内亦不在外。是為宴坐。於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐。不断煩悩而入涅槃。是為宴坐。若能如是坐者。仏所印可。時我世尊。聞説是語黙然而止不能加報。故我不任詣彼問疾。
書き下し
爾の時、長者維摩詰、自ら念う、床に寝疾す、世尊は大慈にして寧ろ愍みを垂れたまわざらんや、と。仏、其の意を知りて、即ち舎利弗に告げたまわく、汝、行きて維摩詰に詣り疾を問え。舎利弗、仏に白して言さく、世尊、我、彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに、我、昔曾て林中の樹下に宴坐せし時、維摩詰来たりて我に謂いて言わく、唯、舎利弗、必ずしも是れ坐するを宴坐と為さざるなり。夫れ宴坐とは、三界に於て身意を現ぜざる、是を宴坐と為す。滅定を起たずして諸の威儀を現ずる、是を宴坐と為す。道法を捨てずして凡夫の事を現ずる、是を宴坐と為す。心、内に住せず亦た外に在らざる、是を宴坐と為す。諸見に於て動ぜずして三十七品を修行する、是を宴坐と為す。煩悩を断ぜずして涅槃に入る、是を宴坐と為す。若し能く是くの如く坐する者は、仏の印可したまう所なり、と。時に我、世尊、是の語を聞きて、黙然として止み、加報すること能わざりき。故に我、彼に詣りて疾を問うに任せず。
現代語訳
そのとき、長者の維摩詰は、床に伏せながらこう思いました。世尊は大いなる慈悲をお持ちなのだから、どうして私に憐れみを垂れてくださらないことがあろうか。仏はその心を知って、すぐに舎利弗に言われました。あなたは行って、維摩詰を見舞いなさい。舎利弗は仏に申し上げました。世尊、私は彼のもとへ行って見舞うことに堪えません。なぜなら、思い起こせば、私が昔、林の中の樹の下で静かに坐禅していたとき、維摩詰が来て私にこう言ったからです。舎利弗さん、ただ坐っているだけが宴坐なのではありません。宴坐とは、三界の中で身と意を現さないこと、これを宴坐といいます。滅尽定を起たずに、さまざまな立ち居振る舞いを現すこと、これを宴坐といいます。仏道の法を捨てずに、凡夫としての事を現すこと、これを宴坐といいます。心が内にとどまらず、外にもないこと、これを宴坐といいます。さまざまな見解に動かされずに、三十七道品を修行すること、これを宴坐といいます。煩悩を断たずに涅槃に入ること、これを宴坐といいます。もしこのように坐ることができるなら、それは仏が認められるところです。そのとき私は、世尊よ、この言葉を聞いて黙ってしまい、答えることができませんでした。ですから私は、彼のもとへ行って見舞うことに堪えないのです。
解説

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