維摩経 / 方便品第二(3)
其以方便現身有疾。以其疾故。國王大臣長者居士婆羅門等。及諸王子并餘官屬。無數千人皆往問疾。其往者。維摩詰因以身疾廣為說法。諸仁者。是身無常無強無力無堅。速朽之法不可信也。為苦為惱眾病所集。諸仁者。如此身明智者所不怙。是身如聚沫不可撮摩。是身如泡不得久立。是身如炎從渴愛生。是身如芭蕉中無有堅。是身如幻從顛倒起。是身如夢為虛妄見。是身如影從業緣現。是身如響屬諸因緣。是身如浮雲須臾變滅。是身如電念念不住。是身無主為如地。是身無我為如火。是身無壽為如風。是身無人為如水。是身不實四大為家。是身為空離我我所。是身無知如草木瓦礫。是身無作風力所轉。是身不淨穢惡充滿。是身為虛偽。雖假以澡浴衣食必歸磨滅。是身為災百一病惱。是身如丘井為老所逼。是身無定為要當死。是身如毒蛇如怨賊如空聚。陰界諸入所共合成。
新字:其以方便現身有疾。以其疾故。国王大臣長者居士婆羅門等。及諸王子并余官属。無数千人皆往問疾。其往者。維摩詰因以身疾広為説法。諸仁者。是身無常無強無力無堅。速朽之法不可信也。為苦為悩衆病所集。諸仁者。如此身明智者所不怙。是身如聚沫不可撮摩。是身如泡不得久立。是身如炎従渇愛生。是身如芭蕉中無有堅。是身如幻従顛倒起。是身如夢為虚妄見。是身如影従業縁現。是身如響属諸因縁。是身如浮雲須臾変滅。是身如電念念不住。是身無主為如地。是身無我為如火。是身無寿為如風。是身無人為如水。是身不実四大為家。是身為空離我我所。是身無知如草木瓦礫。是身無作風力所転。是身不浄穢悪充満。是身為虚偽。雖仮以澡浴衣食必帰磨滅。是身為災百一病悩。是身如丘井為老所逼。是身無定為要当死。是身如毒蛇如怨賊如空聚。陰界諸入所共合成。
書き下し
其の方便を以て身に疾有るを現ず。其の疾を以ての故に、国王・大臣・長者・居士・婆羅門等、及び諸の王子并びに餘の官属、無数千人、皆往きて疾を問う。其の往く者に、維摩詰、身の疾に因りて広く為に法を説く。諸の仁者、是の身は無常にして、強無く力無く堅無し。速やかに朽つる法にして信ずべからざるなり。苦と為し悩と為し、衆病の集まる所なり。諸の仁者、此くの如き身は、明智の者の怙まざる所なり。是の身は聚沫の如く、撮摩すべからず。是の身は泡の如く、久しく立つを得ず。是の身は炎の如く、渇愛より生ず。是の身は芭蕉の如く、中に堅有ること無し。是の身は幻の如く、顚倒より起こる。是の身は夢の如く、虚妄の見たり。是の身は影の如く、業縁より現ず。是の身は響の如く、諸の因縁に属す。是の身は浮雲の如く、須臾に変滅す。是の身は電の如く、念念に住せず。是の身は主無く、地の如しと為す。是の身は我無く、火の如しと為す。是の身は寿無く、風の如しと為す。是の身は人無く、水の如しと為す。是の身は不実にして、四大を家と為す。是の身は空と為し、我・我所を離る。是の身は無知にして、草木・瓦礫の如し。是の身は無作にして、風力の転ずる所なり。是の身は不浄にして、穢悪充満す。是の身は虚偽と為す。仮に澡浴・衣食を以てすと雖も、必ず磨滅に帰す。是の身は災と為し、百一の病悩あり。是の身は丘井の如く、老に逼らる。是の身は無定にして、要ず当に死すべしと為す。是の身は毒蛇の如く、怨賊の如く、空聚の如し。陰・界・諸入の共に合して成す所なり。
現代語訳
維摩詰は方便によって、病気であることを現しました。その病のために、国王、大臣、長者、居士、婆羅門など、さらに王子たちや他の役人たち、数え切れないほどの人々が、皆、見舞いに訪れました。訪れた人々に対して、維摩詰は自分の病をきっかけに、広く法を説きました。皆さん、この身は無常であって、強くも、力強くも、堅固でもありません。すぐに朽ちる性質のもので、頼りにできません。苦しみであり悩みであり、多くの病が集まる所です。皆さん、このような身は、智慧ある者が頼りとしないものです。この身は水の泡の塊のようで、つかむことができません。この身は泡のようで、長くは保てません。この身は陽炎のようで、渇きのような愛着から生じます。この身は芭蕉のようで、中に堅いところがありません。この身は幻のようで、取り違えから起こります。この身は夢のようで、虚妄の見方です。この身は影のようで、業の縁から現れます。この身は山びこのようで、さまざまな因縁によるものです。この身は浮雲のようで、たちまち変わって消えます。この身は稲妻のようで、一瞬ごとに留まりません。この身には主がなく、地のようなものです。この身には我がなく、火のようなものです。この身には寿命の実体がなく、風のようなものです。この身には人の実体がなく、水のようなものです。この身は実体がなく、四大を家としています。この身は空であって、我も我がものも離れています。この身は知覚がなく、草木や瓦礫のようなものです。この身は自ら作るものでなく、風の力に動かされているだけです。この身は不浄で、汚れたものが満ちています。この身は虚偽です。たとえ入浴し、衣服を着て、食事をさせても、必ず磨り減って滅びます。この身は災いであり、百一の病の苦しみがあります。この身は枯れ井戸のようで、老いに迫られています。この身は定まらず、必ず死ぬものです。この身は毒蛇のようであり、怨みをもつ賊のようであり、人のいない村のようです。五陰、十八界、十二入が集まってできているだけです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
維摩経・文殊師利問疾品第五(4)文殊師利言わく、「居士、有疾の菩薩は云何が其の心を調伏する」と。維摩詰言わく、「有疾の菩薩は応に是の念を作すべし。今、我が此の病は皆前世の妄想顛倒、諸の煩悩より生ず。実法有ること無し、誰か病を受くる者ならん。所以は何ん。四大合するが故に仮に名づけて身と為す。四大に主無く、身にも亦我無し。又、此の病の起こるは皆我に著するに由る。是の故に我に於いて応に著を生ずべからず。既に病の本を知らば、即ち我想及び衆生想を除き、当に法想を起こすべし。応に是の念を作すべし、但だ衆法を以て此の身を合成す。起こるは唯だ法の起こるのみ、滅するは唯だ法の滅するのみ。又、此の法は各おの相知らず。起こる時に我起こると言わず、滅する時に我滅すと言わず。彼の有疾の菩薩は法想を滅せんが為に、当に是の念を作すべし、此の法想なる者も亦是れ顛倒なり。顛倒なる者は是れ即ち大患なり。我れ応に之を離るべし。云何が離るると為す。我・我所を離る。云何が我・我所を離る。謂わく二法を離る。云何が二法を離る。謂わく内外の諸法を念ぜずして平等を行ず。云何が平等なる。我等しく涅槃等しきと為す。所以は何ん。我及び涅槃、此の二は皆空なればなり。何を以て空と為す。但だ名字を以ての故に空なり。此の如き二法は決定の性無し。是の平等を得れば余の病有ること無く、唯だ空病有り。空病も亦空なり。是の有疾の菩薩は、受くる所無きを以て而も諸受を受く。未だ仏法を具せずと雖も、亦た受を滅して証を取らず。設い身に苦有らば、悪趣の衆生を念じて大悲心を起こす。我れ既に調伏せり、亦当に一切衆生を調伏すべし。但だ其の病を除きて、法を除かず。病の本を断たんが為に之を教導す。何をか病の本と謂う。謂わく攀縁有るなり。攀縁有るに従りて則ち病の本と為る。何の所にか攀縁する。之を三界と謂う。云何が攀縁を断つ。無所得を以てす。若し無所得なれば則ち攀縁無し。何をか無所得と謂う。謂わく二見を離るるなり。何をか二見と謂う。謂わく内見外見、是れ無所得なり。文殊師利、是れを有疾の菩薩の其の心を調伏すと為す。老病死の苦を断ぜんが為なるは是れ菩薩の菩提なり。若し是の如くならずんば己が修治する所は慧利無しと為す。譬えば怨に勝ちて乃ち勇と為す可きが如し」と。
-
維摩経・文殊師利問疾品第五(3)爾の時、文殊師利、維摩詰に問いて言わく、「菩薩は応に云何が有疾の菩薩を慰喩すべき」と。維摩詰言わく、「身の無常を説きて、身を厭離することを説かず。身に苦有りと説きて、涅槃を楽しむことを説かず。身の無我を説きて、而も衆生を教導することを説く。身の空寂を説きて、畢竟寂滅を説かず。先の罪を悔ゆることを説きて、而も過去に入ることを説かず。己の疾を以て彼の疾を愍れみ、当に宿世無数劫の苦を識るべし。当に一切衆生を饒益することを念じ、修むる所の福を憶い、浄命を念じ、憂悩を生ずること勿く、常に精進を起こすべし。当に医王と作りて衆病を療治すべし。菩薩は応に是の如く有疾の菩薩を慰喩して、其をして歓喜せしむべし」と。
-
維摩経・文殊師利問疾品第五(2)維摩詰言わく、「癡より愛有りて、則ち我が病生ず。一切衆生の病めるを以て、是の故に我病む。若し一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅す。所以は何ん。菩薩は衆生の為の故に生死に入る。生死有れば則ち病有り。若し衆生病を離るることを得ば、則ち菩薩に復た病無し。譬えば長者に唯だ一子有り、其の子病を得れば父母も亦病み、若し子の病愈ゆれば父母も亦愈ゆるが如し。菩薩も是の如し。諸の衆生に於いて之を愛すること子の若し。衆生病めば則ち菩薩病み、衆生の病愈ゆれば菩薩も亦愈ゆ。又、言わく、是の疾は何れの所にか因りて起こるとは、菩薩の病は大悲を以て起こる」と。 文殊師利言わく、「居士、此の室は何を以て空しくして侍者無きや」と。維摩詰言わく、「諸仏の国土も亦復た皆空なり」と。 又問う、「何を以て空と為す」と。答えて曰わく、「空を以て空なり」と。 又問う、「空は何ぞ空を用いん」と。答えて曰わく、「分別無き空なるを以ての故に空なり」と。 又問う、「空は分別す可きや」と。答えて曰わく、「分別も亦空なり」と。 又問う、「空は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に六十二見の中に於いて求むべし」と。 又問う、「六十二見は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に諸仏の解脱の中に於いて求むべし」と。 又問う、「諸仏の解脱は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に一切衆生の心行の中に於いて求むべし」と。又、仁の問う所の何ぞ侍者無きやとは、一切の衆魔及び諸の外道は皆吾が侍なり。所以は何ん。衆魔とは生死を楽しむ。菩薩は生死に於いて捨てず。外道とは諸見を楽しむ。菩薩は諸見に於いて動ぜず。 文殊師利言わく、「居士の疾む所は、何等の相と為すや」と。維摩詰言わく、「我が病は形無くして見る可からず」と。 又問う、「此の病は身と合するや、心と合するや」と。答えて曰わく、「身と合するに非ず、身の相離るるが故に。亦た心と合するに非ず、心は幻の如きが故に」と。 又問う、「地大・水大・火大・風大、此の四大に於いて何れの大の病なるや」と。答えて曰わく、「是の病は地大に非ず、亦た地大を離れず。水・火・風大も亦復た是の如し。而も衆生の病は四大より起こる。其の病有るを以て、是の故に我病む」と。
-
維摩経・弟子品第三(10)仏、阿難に告げたまわく、「汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え」と。阿難、仏に白して言さく、「世尊、我は彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに昔時、世尊、身に小しく疾有りて、当に牛乳を用うべし。我即ち鉢を持ちて大婆羅門の家の門下に詣りて立てり。時に維摩詰来たりて我に謂いて言わく、『唯、阿難よ、何為れぞ晨朝に鉢を持ちて此に住する』と。我言わく、『居士よ、世尊、身に小しく疾有りて、当に牛乳を用うべし。故に来たりて此に至れり』と。維摩詰言わく、『止みね止みね、阿難。是の語を作すこと莫かれ。如来の身は金剛の体なり。諸悪已に断じ、衆善普く会す。当に何の疾有るべき、当に何の悩み有るべき。默して往け、阿難。如来を謗ること勿かれ。異人をして此の麁言を聞かしむること莫かれ。大威徳の諸天及び他方浄土より来たれる諸の菩薩をして、斯の語を聞くを得せしむること無かれ。阿難よ、転輪聖王は少福を以ての故に尚お病無きを得。豈に況んや如来の無量の福の会して普く勝れたる者をや。行け、阿難。我らをして斯の恥を受けしむること勿かれ。外道梵志、若し此の語を聞かば、当に是の念を作すべし、何ぞ名づけて師と為さん、自らの疾すら救う能わずして、能く諸の疾を救うやと。仁、密かに速やかに去りて、人をして聞かしむること勿かれ。当に知るべし、阿難、諸の如来の身は即ち是れ法身にして、思欲の身に非ず。仏は世尊として三界に過ぎたり。仏身は無漏にして、諸漏已に尽く。仏身は無為にして、諸数に堕せず。此の如きの身に、当に何の疾有るべき、当に何の悩み有るべき』と。時に我れ、世尊に実に慚愧を懐き、仏に近づきて謬りて聴けるに得無きやと。即ち空中の声を聞くに曰わく、『阿難よ、居士の言の如し。但仏の五濁悪世に出で、斯の法を現行して衆生を度脱せんが為なり。行け、阿難。乳を取りて慚ずること勿かれ』と。世尊、維摩詰の智慧弁才、若此の如くなり。是の故に彼に詣りて疾を問うに任せず」と。是の如く五百の大弟子、各各仏に向かいて其の本縁を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆曰わく、彼に詣りて疾を問うに任せず、と。
-
維摩経・方便品第二(4)諸の仁者、此れは患厭すべし、当に仏身を楽うべし。所以は何ん。仏身とは即ち法身なり。無量の功徳智慧より生じ、戒・定・慧・解脱・解脱知見より生じ、慈悲喜捨より生じ、布施・持戒・忍辱・柔和・勤行精進・禅定・解脱・三昧・多聞・智慧の諸の波羅蜜より生ず。方便より生じ、六通より生じ、三明より生じ、三十七道品より生じ、止観より生じ、十力・四無所畏・十八不共法より生じ、一切の不善の法を断じ一切の善法を集むることより生じ、真実より生じ、不放逸より生ず。是くの如き無量の清浄の法より如来の身を生ず。諸の仁者、仏身を得て一切衆生の病を断ぜんと欲する者は、当に阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。是くの如く長者維摩詰、諸の問疾の者の為に、応ずるに如く法を説き、無数千人をして皆阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ。
-
維摩経・文殊師利問疾品第五(5)是の如く老病死を兼ね除く者は、菩薩の謂いなり。彼の有疾の菩薩は、応に復た是の念を作すべし。我が此の病の如く、非真非有なり。衆生の病も亦た非真非有なり。是の観を作す時、諸の衆生に於いて若し愛見の大悲を起こさば、即ち応に捨離すべし。所以は何ん。菩薩は客塵の煩悩を断除して大悲を起こす。愛見の悲とは、則ち生死に於いて疲厭の心有り。若し能く此れを離るれば疲厭有ること無く、在在の所生に愛見の覆う所と為らず。所生に縛無くして、能く衆生の為に法を説きて縛を解く。仏の説きたまう所の如し、若し自ら縛有れば能く彼の縛を解くこと、是の処有ること無し。若し自ら縛無くば、能く彼の縛を解くこと、斯の処有り。是の故に菩薩は縛を起こすべからず。何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著するは是れ菩薩の縛なり。方便を以て生ずるは是れ菩薩の解なり。又、方便無き慧は縛、方便有る慧は解、慧無き方便は縛、慧有る方便は解なり。何をか方便無き慧の縛と謂う。謂わく、菩薩、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就し、空・無相・無作の法の中に於いて自ら調伏するを、是れを方便無き慧の縛と名づく。何をか方便有る慧の解と謂う。謂わく、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就せず、空・無相・無作の法の中に於いて、自ら調伏するを以て而も疲厭せざるを、是れを方便有る慧の解と名づく。何をか慧無き方便の縛と謂う。謂わく、菩薩、貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩に住して、而も衆の徳本を植うるを、是れを慧無き方便の縛と名づく。何をか慧有る方便の解と謂う。謂わく、諸の貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩を離れて、而も衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するを、是れを慧有る方便の解と名づく。文殊師利、彼の有疾の菩薩は、応に是の如く諸法を観ずべし。又復た身は無常・苦・空・非我なりと観ずる、是れを慧と為す。身に疾有りと雖も常に生死に在りて、一切を饒益して厭倦せざる、是れを方便と為す。又復た身を観るに、身は病を離れず、病は身を離れず。是の病、是の身、新に非ず故に非ずと観ずる、是れを慧と為す。設い身に疾有るも永く滅せざる、是れを方便と為す。