維摩経 / 文殊師利問疾品第五(2)
維摩詰言。從癡有愛則我病生。以一切眾生病是故我病。若一切眾生病滅則我病滅。所以者何。菩薩為眾生故入生死。有生死則有病。若眾生得離病者。則菩薩無復病。譬如長者唯有一子其子得病父母亦病。若子病愈父母亦愈。菩薩如是。於諸眾生愛之若子。眾生病則菩薩病。眾生病愈菩薩亦愈。又言。是疾何所因起。菩薩病者以大悲起。 文殊師利言。居士。此室何以空無侍者。維摩詰言。諸佛國土亦復皆空。 又問。以何為空。答曰。以空空。 又問。空何用空。答曰。以無分別空故空。 又問。空可分別耶。答曰。分別亦空。 又問。空當於何求。答曰。當於六十二見中求。 又問。六十二見當於何求。答曰。當於諸佛解脫中求。 又問。諸佛解脫當於何求。答曰。當於一切眾生心行中求。又仁所問何無侍者。一切眾魔及諸外道皆吾侍也。所以者何。眾魔者樂生死。菩薩於生死而不捨。外道者樂諸見。菩薩於諸見而不動。 文殊師利言。居士所疾。為何等相。維摩詰言。我病無形不可見。 又問。此病身合耶心合耶。答曰。非身合身相離故。亦非心合心如幻故。 又問。地大水大火大風大。於此四大何大之病。答曰。是病非地大亦不離地大。水火風大亦復如是。而眾生病從四大起。以其有病是故我病。
新字:維摩詰言。従痴有愛則我病生。以一切衆生病是故我病。若一切衆生病滅則我病滅。所以者何。菩薩為衆生故入生死。有生死則有病。若衆生得離病者。則菩薩無復病。譬如長者唯有一子其子得病父母亦病。若子病愈父母亦愈。菩薩如是。於諸衆生愛之若子。衆生病則菩薩病。衆生病愈菩薩亦愈。又言。是疾何所因起。菩薩病者以大悲起。 文殊師利言。居士。此室何以空無侍者。維摩詰言。諸仏国土亦復皆空。 又問。以何為空。答曰。以空空。 又問。空何用空。答曰。以無分別空故空。 又問。空可分別耶。答曰。分別亦空。 又問。空当於何求。答曰。当於六十二見中求。 又問。六十二見当於何求。答曰。当於諸仏解脱中求。 又問。諸仏解脱当於何求。答曰。当於一切衆生心行中求。又仁所問何無侍者。一切衆魔及諸外道皆吾侍也。所以者何。衆魔者楽生死。菩薩於生死而不捨。外道者楽諸見。菩薩於諸見而不動。 文殊師利言。居士所疾。為何等相。維摩詰言。我病無形不可見。 又問。此病身合耶心合耶。答曰。非身合身相離故。亦非心合心如幻故。 又問。地大水大火大風大。於此四大何大之病。答曰。是病非地大亦不離地大。水火風大亦復如是。而衆生病従四大起。以其有病是故我病。
書き下し
維摩詰言わく、「癡より愛有りて、則ち我が病生ず。一切衆生の病めるを以て、是の故に我病む。若し一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅す。所以は何ん。菩薩は衆生の為の故に生死に入る。生死有れば則ち病有り。若し衆生病を離るることを得ば、則ち菩薩に復た病無し。譬えば長者に唯だ一子有り、其の子病を得れば父母も亦病み、若し子の病愈ゆれば父母も亦愈ゆるが如し。菩薩も是の如し。諸の衆生に於いて之を愛すること子の若し。衆生病めば則ち菩薩病み、衆生の病愈ゆれば菩薩も亦愈ゆ。又、言わく、是の疾は何れの所にか因りて起こるとは、菩薩の病は大悲を以て起こる」と。 文殊師利言わく、「居士、此の室は何を以て空しくして侍者無きや」と。維摩詰言わく、「諸仏の国土も亦復た皆空なり」と。 又問う、「何を以て空と為す」と。答えて曰わく、「空を以て空なり」と。 又問う、「空は何ぞ空を用いん」と。答えて曰わく、「分別無き空なるを以ての故に空なり」と。 又問う、「空は分別す可きや」と。答えて曰わく、「分別も亦空なり」と。 又問う、「空は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に六十二見の中に於いて求むべし」と。 又問う、「六十二見は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に諸仏の解脱の中に於いて求むべし」と。 又問う、「諸仏の解脱は当に何に於いてか求むべき」と。答えて曰わく、「当に一切衆生の心行の中に於いて求むべし」と。又、仁の問う所の何ぞ侍者無きやとは、一切の衆魔及び諸の外道は皆吾が侍なり。所以は何ん。衆魔とは生死を楽しむ。菩薩は生死に於いて捨てず。外道とは諸見を楽しむ。菩薩は諸見に於いて動ぜず。 文殊師利言わく、「居士の疾む所は、何等の相と為すや」と。維摩詰言わく、「我が病は形無くして見る可からず」と。 又問う、「此の病は身と合するや、心と合するや」と。答えて曰わく、「身と合するに非ず、身の相離るるが故に。亦た心と合するに非ず、心は幻の如きが故に」と。 又問う、「地大・水大・火大・風大、此の四大に於いて何れの大の病なるや」と。答えて曰わく、「是の病は地大に非ず、亦た地大を離れず。水・火・風大も亦復た是の如し。而も衆生の病は四大より起こる。其の病有るを以て、是の故に我病む」と。
現代語訳
維摩詰は言いました。「愚かさ(癡)から愛着が生じ、それによって私の病が生じました。すべての衆生が病んでいるので、私も病んでいるのです。もしすべての衆生の病が癒えるなら、私の病も癒えます。なぜなら、菩薩は衆生のために生死の世界に入るからです。生死があれば病があります。もし衆生が病を離れることができるなら、菩薩にはもう病はありません。たとえば、長者にたった一人の子があり、その子が病気になれば父母も病み、子の病が癒えれば父母も癒えるようなものです。菩薩もこれと同じです。多くの衆生を、わが子のように愛します。衆生が病めば菩薩も病み、衆生の病が癒えれば菩薩も癒えます。また、この病は何が原因で起こったのかというお尋ねですが、菩薩の病は大いなる悲から起こるのです。」 文殊師利は言いました。「居士よ、この部屋はなぜ空っぽで侍者がいないのですか。」維摩詰は言いました。「諸仏の国土もまた、すべて空だからです。」 文殊師利はまた尋ねました。「何によって空というのですか。」維摩詰は答えました。「空であることによって空なのです。」 文殊師利はまた尋ねました。「空がなぜ空を必要とするのですか。」維摩詰は答えました。「分別のない空だからこそ、空なのです。」 文殊師利はまた尋ねました。「空は分別できるのですか。」維摩詰は答えました。「分別もまた空です。」 文殊師利はまた尋ねました。「空はどこに求めればよいのですか。」維摩詰は答えました。「六十二の誤った見解の中に求めるべきです。」 文殊師利はまた尋ねました。「六十二の見解はどこに求めればよいのですか。」維摩詰は答えました。「諸仏の解脱の中に求めるべきです。」 文殊師利はまた尋ねました。「諸仏の解脱はどこに求めればよいのですか。」維摩詰は答えました。「すべての衆生の心の動きの中に求めるべきです。」また、あなたが尋ねた、なぜ侍者がいないのかということについては、あらゆる魔と外道はみな私の侍者だからです。なぜなら、魔とは生死の世界を楽しむ者ですが、菩薩は生死の世界を捨てません。外道とはさまざまな見解を楽しむ者ですが、菩薩はそれらの見解に動じません。 文殊師利は言いました。「居士の病は、どのようなすがたですか。」維摩詰は言いました。「私の病には形がなく、見ることができません。」 文殊師利はまた尋ねました。「この病は身体と結びついているのですか、それとも心と結びついているのですか。」維摩詰は答えました。「身体と結びついているのではありません。身体のすがたを離れているからです。また心と結びついているのでもありません。心は幻のようだからです。」 文殊師利はまた尋ねました。「地、水、火、風の四大のうち、どの大の病ですか。」維摩詰は答えました。「この病は地大ではなく、また地大を離れたものでもありません。水大、火大、風大も同様です。ただ、衆生の病は四大から起こります。衆生に病があるので、私も病むのです。」
解説

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