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大和俗訓 / 巻之六・躬行上

天神、地祇、人鬼ともに、人の位によりて、わが身にあづかりて、祭るべき神あり。身にあづからずして、祭るまじき神あり。わが祭るべき神にあらざれば祭らず。是を祭るは諂なり、非禮なり。神は非禮をうけ給はず。わが身にあづからずして、祭るべき神にあらざれば、正しき神にても淫祀と云ふ。淫祀は無福とて、わが祭るまじき神を祭りて、いのり諂ひつかへても、非禮なればうけ給はず、利生なし。利生なきを無福と云ふ。わが祭るべき神と、祭るまじき神とを、よくわきまふべし。祭るまじき神を祭るは、非禮にして神慮にかなはず、利生なくて神罰はかりがたし、天子諸侯の祭り給へる所の、及びなき天地神明を、いやしき者けがし侮りて祭るは、大なる非禮なり。

新字:天神、地祇、人鬼ともに、人の位によりて、わが身にあづかりて、祭るべき神あり。身にあづからずして、祭るまじき神あり。わが祭るべき神にあらざれば祭らず。是を祭るは諂なり、非礼なり。神は非礼をうけ給はず。わが身にあづからずして、祭るべき神にあらざれば、正しき神にても淫祀と云ふ。淫祀は無福とて、わが祭るまじき神を祭りて、いのり諂ひつかへても、非礼なればうけ給はず、利生なし。利生なきを無福と云ふ。わが祭るべき神と、祭るまじき神とを、よくわきまふべし。祭るまじき神を祭るは、非礼にして神慮にかなはず、利生なくて神罰はかりがたし、天子諸侯の祭り給へる所の、及びなき天地神明を、いやしき者けがし侮りて祭るは、大なる非礼なり。

書き下し

天神、地祇、人鬼ともに、人の位によりて、わが身にあづかりて、祭るべき神あり。身にあづからずして、祭るまじき神あり。わが祭るべき神にあらざれば祭らず。是を祭るは諂なり、非礼なり。神は非礼をうけ給はず。わが身にあづからずして、祭るべき神にあらざれば、正しき神にても淫祀と云ふ。淫祀は無福とて、わが祭るまじき神を祭りて、いのり諂ひつかへても、非礼なればうけ給はず、利生なし。利生なきを無福と云ふ。わが祭るべき神と、祭るまじき神とを、よくわきまふべし。祭るまじき神を祭るは、非礼にして神慮にかなはず、利生なくて神罰はかりがたし、天子諸侯の祭り給へる所の、及びなき天地神明を、いやしき者けがし侮りて祭るは、大なる非礼なり。

現代語訳

天神・地祇・人鬼ともに、人の地位によって、自分の身にかかわって祭るべき神があり、身にかかわらずに祭ってはならない神があります。自分が祭るべき神でなければ祭りません。これを祭るのはへつらいであり、非礼です。神は非礼を受けられません。自分の身にかかわらず、祭るべき神でなければ、正しい神であっても淫祀といいます。「淫祀は福なし」といって、自分が祭ってはならない神を祭って、祈りへつらい仕えても、非礼なので受けられず、ご利益はありません。ご利益のないことを無福といいます。自分が祭るべき神と、祭ってはならない神とを、よくわきまえなさい。祭ってはならない神を祭るのは、非礼で神慮にかなわず、ご利益もなく、神罰ははかりがたい。天子や諸侯が祭られる及びもつかない天地神明を、いやしい者がけがしあなどって祭るのは、大きな非礼です。

解説

頭注のとおり『論語』為政篇の「其の鬼に非ずして之を祭るは諂うなり」と、『礼記』曲礼篇の「其の祭る所に非ずして之を祭るを淫祀と曰う。淫祀は福無し」を踏まえた教えです。ご利益を求めてあちこちの神に祈ることは、神へのへつらいであり非礼だと益軒は言います。当時の身分秩序を前提にした議論ですが、利益目当ての信仰に対する批判として読むと現代にも通じます。都合のよいときだけ神仏にすがるのではなく、日ごろの行いを正すことこそ大切だという戒めです。

この章句が説くこと

神淫祀礼論語祭祀

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