大和俗訓 / 巻之六・躬行上
一人の善を見ては、我もまた此善あらんことを思ひ、是を學び行ふべし。人の不善を見ては、我もまた此不善ありやと、身をかへりみおそれて、もしあらば改むべし。如此すれば、見聞する所の善惡、皆わが助となる。老子の、善人は不善人の師、不善人は善人の資といへるも、此意なり。
新字:一人の善を見ては、我もまた此善あらんことを思ひ、是を学び行ふべし。人の不善を見ては、我もまた此不善ありやと、身をかへりみおそれて、もしあらば改むべし。如此すれば、見聞する所の善悪、皆わが助となる。老子の、善人は不善人の師、不善人は善人の資といへるも、此意なり。
書き下し
一人の善を見ては、我もまた此善あらんことを思ひ、是を学び行ふべし。人の不善を見ては、我もまた此不善ありやと、身をかへりみおそれて、もしあらば改むべし。如此すれば、見聞する所の善悪、皆わが助となる。老子の、善人は不善人の師、不善人は善人の資といへるも、此意なり。
現代語訳
人の善を見ては、自分にもこの善があるようにと思い、これを学び行いなさい。人の不善を見ては、自分にもこの不善がないかと、身をかえりみて恐れ、もしあれば改めなさい。このようにすれば、見聞きする善悪は、みな自分の助けとなります。老子が「善人は不善人の師、不善人は善人の資」と言ったのも、この意味です。
解説
『論語』里仁篇の「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる」と同じ趣旨の教えで、益軒は『老子』第二十七章の言葉も引いています。立派な人を見れば手本にし、良くない人を見れば自分に同じ点がないか省みる。そうすれば、出会うすべての人が自分の先生になるというのです。職場で尊敬できる先輩からも、反面教師となる人からも学べるのは、この姿勢があってこそです。人を批判するだけで終わらせず、自分を磨く材料にする視点を与えてくれます。
この章句が説くこと
善自省老子学び反面教師
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