山鹿語類 / 士道・辨義利
而して大丈夫今日所言所行、甚理に中るがごとしと云ども、聊さきにあてゝ爲る所あるときは、是則利心也。あてゝすると云は、今日の言行は此ためになる處ありと利をふくめ致すは、是財寳名色の利にあらずとも、則ち伯術に落て、聖人の敎にたがふべし。たとへば我行跡をたしなむは、人に能くいはれんと思ふは名欲也。人の能く云ためにあらず。唯家中の手本となりて、下々の作法行儀を糾明し、家をとゝのふるの爲なりと云、是則利也。勿論家をとゝのへんとならば、身を修むるにありと云へども、家の爲めに身を修むると心え行はんはあやまり也。天性我身はをさむべきのことわりあり。我身をさまりて家とゝのはずとも、少も其處に心とゞむべからず。人としては此道を修むるゆゑんの身也。外にみる處なし。是王道の大にして萬物にさはること非ざることわざなり。董仲舒曰。仁人者正其誼不謀其利、明其道不計其功と云は、今云處にも近からんや。朱子曰。正義未嘗不利、明道豈必無功、但不先以功利爲心耳と云へり。身をさまれば、家齊は定れることにして、家齊をあてゝせんとならば、是其功をあつる也。聖學の究理にあらざる也。
新字:而して大丈夫今日所言所行、甚理に中るがごとしと云ども、聊さきにあてゝ為る所あるときは、是則利心也。あてゝすると云は、今日の言行は此ためになる処ありと利をふくめ致すは、是財宝名色の利にあらずとも、則ち伯術に落て、聖人の教にたがふべし。たとへば我行跡をたしなむは、人に能くいはれんと思ふは名欲也。人の能く云ためにあらず。唯家中の手本となりて、下々の作法行儀を糾明し、家をとゝのふるの為なりと云、是則利也。勿論家をとゝのへんとならば、身を修むるにありと云へども、家の為めに身を修むると心え行はんはあやまり也。天性我身はをさむべきのことわりあり。我身をさまりて家とゝのはずとも、少も其処に心とゞむべからず。人としては此道を修むるゆゑんの身也。外にみる処なし。是王道の大にして万物にさはること非ざることわざなり。董仲舒曰。仁人者正其誼不謀其利、明其道不計其功と云は、今云処にも近からんや。朱子曰。正義未嘗不利、明道豈必無功、但不先以功利為心耳と云へり。身をさまれば、家斉は定れることにして、家斉をあてゝせんとならば、是其功をあつる也。聖学の究理にあらざる也。
書き下し
而して大丈夫今日所言所行、甚理に中るがごとしと云ども、聊さきにあてゝ為る所あるときは、是則利心也。あてゝすると云は、今日の言行は此ためになる処ありと利をふくめ致すは、是財宝名色の利にあらずとも、則ち伯術に落て、聖人の教にたがふべし。たとへば我行跡をたしなむは、人に能くいはれんと思ふは名欲也。人の能く云ためにあらず。唯家中の手本となりて、下々の作法行儀を糾明し、家をとゝのふるの為なりと云、是則利也。勿論家をとゝのへんとならば、身を修むるにありと云へども、家の為めに身を修むると心え行はんはあやまり也。天性我身はをさむべきのことわりあり。我身をさまりて家とゝのはずとも、少も其処に心とゞむべからず。人としては此道を修むるゆゑんの身也。外にみる処なし。是王道の大にして万物にさはること非ざることわざなり。董仲舒曰。仁人者正其誼不謀其利、明其道不計其功と云は、今云処にも近からんや。朱子曰。正義未嘗不利、明道豈必無功、但不先以功利為心耳と云へり。身をさまれば、家斉は定れることにして、家斉をあてゝせんとならば、是其功をあつる也。聖学の究理にあらざる也。
現代語訳
そして大丈夫が今日言うこと行うことが、いかにも理に当たっているようであっても、少しでも先を当てにしてするところがあるときは、それはすなわち利心である。当てにしてするというのは、今日の言行はこのためになるところがあると利を含めて行うことで、これは財宝や名声・色欲の利でなくても、つまりは覇者の術に落ちて、聖人の教えに違うのである。たとえば自分の行いを慎むのは、人によく言われたいと思うからなら名誉欲である。人によく言われるためではない、ただ家中の手本となって、下々の作法や行儀を正し、家を整えるためだと言う、これもすなわち利である。もちろん家を整えようとするなら身を修めることにあると言うけれども、家のために身を修めると心得て行うのは誤りである。天性としてわが身は修めるべき道理がある。わが身が修まって家が整わなくても、少しもそこに心を留めてはならない。人としては、この道を修めるためにある身である。外に見るところはない。これが王道の大きくて万物に障りのないわざである。董仲舒は「仁人はその義を正してその利を謀らず、その道を明らかにしてその功を計らない」と言ったが、いま言うところにも近いのではないか。朱子は「義を正せば利がないことはなく、道を明らかにすれば必ずしも功がないわけではない。ただ先に功利を心としないだけだ」と言った。身が修まれば家が整うのは決まったことであって、家が整うことを当てにしようとするなら、それはその功を当てにしているのである。聖学の究理ではない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『山鹿語類』士道・辨義利師嘗曰。大丈夫存心の工夫、唯在弁義利之間而已。君子小人の差別、王道覇者之異論、すべて義と利との間に有之也。いかなるをか義と云はんとならば、内に省りみて有所羞畏、処事而後自慊、是を義といふべし。いかなるをか利と云はんとならば、内縦欲而外従其安逸、これを利と云べし。古今の間、学者道に入の始末、唯義利の弁を詳にするにあるべき也。其ゆへに利は人の甚所好にして、人々皆所陥溺也。されば生死について云ば、生を好み死をにくみ、利害について云ば、利にはしりて害をさけ、労逸について云ときは、労を嫌て逸に付、飲食居宅衣服の用、視聴言動の間、凡そ七情の発する処、各此情なくんばあるべからず。
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『山鹿語類』士道・辨義利其故は生死の塲此一刹那にありと云ふとき、君のため又は人のため其外重きものゝために害あらんに於ては、速に死して不可顧。我重きものゝために害なきにをいては、能く保ち能く養て命を全くするに在ぬべし。利害労逸各然り。万事にをいて如此究事物之理、則義理の行長じて、利害による所則消滅す。而利害の間宜く立て、利まことに利あり、害まことに害ある也。是聖人君子人に教ゆるにしゆる所なく、唯自体認せしめて不得止のゆゑんを推して万事に用ゆるのみ也。此惑弁じがたきを知て、古人さま〳〵の教を立たり。大丈夫として己れが利害によつて、天性に耻ぢ恐るゝ処明白なる義を棄ん事は、甚可嘆也。されば小利を得て傲り、功をとげてほこり、財に臨んで求め、難を見て遁れ、争て勝つことを求め、わかつては多からんことを欲し、欲をたんぬせず、志を満しめんことを思ひ、楽を尽さんことをねがふ。如此無量の情欲出来する時、軽重を弁ずる事あらざるが故に、重き方を忘れて軽きを重んじ、ついに君臣父子兄弟師友夫婦の義かけて、其事をねがひのまゝに致して、そのあとに快からぬ処生ず。是義のかくる処は、天則にそむく処あれば也。
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『山鹿語類』士道・辨義利義利の弁を詳にする時は、存心して不放、義利の弁を不知時は、情欲一たび動くとき、我好悪にうばはれて、心爰に不存也。さるによつて、存心の工夫は敬の一字にありと、古人これを論ず。敬は聖人の礼を制する本にして、毋不敬といへり。今云処は人々の必ず所惑此間にあれば、此弁を詳にせば心は常に存すべきなり。敬計り存すと云とも、其わきまへ詳ならず、究理分明にあらざれば、是は義とせんや、是は利とせんや。両般の間ついに不分して、道こゝにくらし。故に以弁義利間為存心之要にありぬべしと也。孔子曰。君子喩於義。小人喩於利。孟子曰。鶏鳴而起。孳々為善者。舜之徒也。鶏鳴而起。孳々為利者。跖之徒也。欲知舜与跖之分。無他利与善之間也。
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『五常訓』巻之四・義一董仲舒曰く、仁人は其の義を正して其の利を謀らず、其の道を明かにして其の功を計らず。利とは義を行ふ自然のしるしなり。故に利は義の和なりといへり。君に仕ふるを以ていはば、朝夕つつしんで君によく仕ふれば、君もよろこびて、我を愛し給ふ。是義の和する処利なり。君子の、君につかへて義を行ふは、唯一すぢに君のためにして、私のためにせず、君の寵愛をねがふ心あるべからず。是義を正して利をはからざる也。君に仕ふるに限らず、万のこと、皆かくの如し。すこしも我がためにする心あるは利なり。義にあらず。此利は、みだりに財禄をむさぼる如くなる利欲にはあらず。仁人の事なれば、利欲は云ふに及ばず。義を行ひて、自から来る自然のしるしを云ふ。其自然のしるしを得んと思ふは利なり。
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『近思録』巻7 出処又王公大人の如き、皆能く軒冕は外物なりと言ふ。其の利害に臨むに及びては、則ち義理に就くことを知らず、却つて富貴に就く。此くの如き者は只是れ説き得て実に見ざるなり。其の水火を蹈むに及びては、則ち人皆之を避く。是れ実に見得るなり。須らく是れ「不善を見ること湯を探るが如し」の心有れば、則ち自然に別なり。昔曾て虎に傷つけられし者、他人虎を語れば、則ち三尺の童子と雖も、皆虎の畏るべきを知る。終に曾て傷つけられし者の、神色懾懼して、至誠に之を畏るるに似ず。是れ実に見得るなり。之を心に得る、是を徳有りと謂ふ。勉強を待たず。然れども学者は則ち須らく勉強すべし。古人に軀を損ひ命を隕す者有り、若し実に見得ざれば、則ち烏んぞ能く此くの如くならんや。須らく是れ実に見得べし。生は義より重からず、生は死より安からざるなり。故に「身を殺して仁を成す」有り、只是れ一箇の是を成就するのみ。孟子の舜跖の分を弁ずる、只義利の間に在り。間と言ふ者は、相去ること甚だ遠からず、争ふ所毫末なるを謂ふのみ。義と利とは只是れ箇の公と私となり。纔かに義を出づれば、便ち利を以て言ふなり。只那の計較する、便ち是れ利害有るが為なり。若し利害無くんば、何ぞ計較を用ひん。利害とは、天下の常情なり。人皆利に趨き害を避くるを知る。聖人は則ち更に利害を論ぜず、惟だ義の当に為すべきか当に為すべからざるかを看る、便ち是れ命其の中に在るなり。大凡儒者は未だ敢へて深く道に造るを望まず。且く只所存正しく、善悪を分別し、廉恥を識るを得よ。此くの如き等の人多ければ、亦須らく漸く好かるべし。趙景平「子罕に利を言ふ」を問ふ、所謂利とは何の利ぞ。曰く、独り財利の利のみならず。凡そ利心有れば、便ち不可なり。一事を作すが如き、須らく自家の穏便なる処を尋ぬるは、皆利心なり。聖人は義を以て利と為す。義の安んずる処便ち利と為す。釈氏の学の如きは、皆利に本づく、故に便ち是ならず。問ふ、邢七久しく先生に従ふ、想ふに都て知識無し、後来極めて狼狽す。
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『山鹿語類』士道・辨義利如此云ときは、以前の軽重の論も、人を尤むることになりぬべきに似たり。聖人の教は全く不然。世の人々皆守長が振舞の如くあらんには、君臣も不立、父子もわきまへなく、各其利を利として、誰か主人の苦労にかはり、父兄のいたはりに代るものあらん。左云ふ人も下人をもたざることもある不可。子なきこともあらじ。我下人は主人をすてゝ身をかまへよ、子は親をすてゝ自ら逞くせよと云ば、世間一時に禽獣夷狄に可落。人として禽獣夷狄に落入ば、天地こゝに倒覆すべし。是たとへ行へと云ても、内にはぢて不被行処の感通あるを以て也。聖人は不得止の天則のまゝに順て、道を道と立玉へり。情欲のまゝにいたさば、天下の間更に不可立をしれば也。生死の事にかぎらず、凡そ利害のまじはる処、各此思ひ入を味て、その宜を制すべき也。
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