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うひ山ぶみ / 注[ム]みづからも古風の歌をまなびてよむべし

たててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其敎によりて、世によむ人おほく出來たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ哥を好みもてあぞぶのみにして、その心ざしは、近世風の哥よみの輩と、同じこと也、さればよき哥をよみ出むと心がくることも、近世風の哥人とかはる事なし、それにつきては、道のために學ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ哥のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも哥は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必詞詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、哥といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき哥とあしき哥とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、哥の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、

新字:たててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出来たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあぞぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也、さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし、それにつきては、道のために学ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必詞詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、

書き下し

たててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出来たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあそぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也、さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし、それにつきては、道のために学ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、

現代語訳

(万葉の古風を)旗印に立てて詠んだ人は、ただ鎌倉の右大臣殿(源実朝)だけで、ほかには聞こえなかったが、わが師の大人(賀茂真淵)が詠み始められてから、その教えによって世に詠む人が多く出てきた。しかしその人たちの志すところは、必ずしも古の道を明らかにするために詠むのではなく、多くはただ歌を好んで遊び楽しむだけであって、その志は近世風の歌詠みの連中と同じことである。だから良い歌を詠み出そうと心がけることも、近世風の歌人と変わりはない。それについては、道のために学ぶ筋はしばらく措いて、今はまたただ歌の上についての心得をいくつか述べようと思う。そもそも歌は、思う心を言い述べるわざであるとはいっても、普通の言葉とは違って、必ず詞に彩り(あや)をなして、調べを美しく整える道である。これは神代の初めからそうである。詞の調べにかかわらず、ただ思うままに言い出すのは普通の言葉であって、歌というものではない。さて、その詞の彩りについて、良い歌と悪い歌との区別があるのだが、上代の人はただひととおり、歌の定まった調べを整えて詠んだだけであって、

解説

本文で宣長は、道を学ぶ者も自ら古風の歌を学んで詠むべきだと説いた。この注はその一句を受けて、まず万葉風の歌の歩みを振り返る。源実朝の後に絶えていた古風の歌は、師の賀茂真淵が詠み始めてから広まったが、宣長は、その門流の多くは歌を楽しむだけで、志は近世風の歌人と変わらないと見ている。そのうえで彼は、歌とは思いをそのまま口にするものではなく、詞に「あや」をつけ調べを整える道であり、それは神代以来のことだと定義する。この定義が、後に続く古風と後世風をめぐる長い論の土台になる。素直な感情の吐露こそ本物だという考えに、宣長ははっきり異を唱えているのである。自分の言葉に形を与える工夫を、偽りと見るか、表現の本質と見るか。

この章句が説くこと

歌古風あや調べ賀茂真淵

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