うひ山ぶみ / 注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり
哥學いかでか哥よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき哥をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども哥學の方は、大概にても有べし、哥よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、哥學のかたに深くかゝづらひては、佛書からぶみなどにも、廣くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功をつひやすこともおほきぞかし、物語ぶみどもをもつねに見るべし、此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもらしつ、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、哥をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物學びする人々のやうを見渡すに、主と道を學ぶ輩は、上にいへるごとくにて、おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、
新字:歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、歌学のかたに深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功をつひやすこともおほきぞかし、物語ぶみどもをもつねに見るべし、此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもらしつ、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物学びする人々のやうを見渡すに、主と道を学ぶ輩は、上にいへるごとくにて、おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、
書き下し
歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、歌学のかたに深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功をつひやすこともおほきぞかし、物語ぶみどもをもつねに見るべし、此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもらしつ、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物学びする人々のやうを見渡すに、主と道を学ぶ輩は、上にいへるごとくにて、おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、
現代語訳
歌学がどうして歌を詠む妨げになろうか。妨げとなって良い歌を詠めないのは、そのわきまえが悪いためである。けれども歌学の方はおおよそでもよいだろう。歌を詠む方をこそ主としたいものである。歌学の方に深くかかわっては、仏書や漢籍などにも広く渡らなければ事が足りない業なので、その中で無益な書に労力を費やすことも多いのである。「物語ぶみどもをもつねに見るべし」とあるのは、この事の子細は『源氏物語玉の小櫛』に詳しく言ったので、ここでは省いた。「いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々」とあるのは、総じて人は雅の趣を知らないではいられない。これを知らないのは、物のあわれを知らず、心ない人である。そしてその雅の趣を知ることは、歌を詠み、物語書などをよく見ることにある。そうして古人の雅な情を知り、総じて古の雅な世のありさまをよく知ることは、これが古の道を知るべき階梯である。それなのに世間の学問をする人々の様子を見渡すと、主として道を学ぶ連中は、上に言ったとおりで、多くはただ漢流の議論や理屈にばかりかかわって、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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うひ山ぶみ・注[ヤ]いにしへ人の風雅(ミヤビ)のおもむき歌などよむをば、たゞあだ事のやうに思ひすてて、歌集などは、ひらきて見ん物ともせず、古人の雅情を、夢にもしらざるが故に、その主とするところの古の道をも、しることあたはず、かくのごとくにては、名のみ神道にて、たゞ外国の意のみなれば、実には道を学ぶといふものにはあらず、さて又歌をよみ文を作りて、古をしたひ好む輩は、たゞ風流のすぢにのみまつはれて、道の事をばうちすてて、さらに心にかくることなければ、よろづにいにしへをしたひて、ふるき衣服調度などをよろこび、古き書をこのみよむたぐひなども、皆たゞ風流のための玩物にするのみ也、そもそも人としては、いかなる者も、人の道をしらでは有べからず、殊に何のすぢにもせよ、学問をもして、書をもよむほどの者の、道に心をよすることなく、神のめぐみのたふときわけなどをもしらず、なほざりに思ひて過すべきことにはあらず、古ヘをしたひたふとむとならば、かならずまづその本たる道をこそ、第一に深く心がけて、明らめしるべきわざなるに、これをさしおきて、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり有リ、世にこれを分て歌学者といへり、歌学といへば、歌よむ事をまなぶことなれども、しばらく件のすぢを分て然いふ也、いにしへに在リては、顯昭法橋など此すぢなるが、其説は、ゆきたらはぬ事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以来の人々の説は、かの近世やうの、おろかなる癖おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず、然るに近く契冲ほふし出てより、此学大キにひらけそめて、歌書のとりさばきは、よろしくなれり、さて歌をよむ事をのみわざとすると、此歌学の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顯昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学のなき人に上手がおほきもの也、こは専一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有ルにや、さりとて歌学のよき人のよめる歌は、皆必ズわろきものと、定めて心得るはひがこと也、此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふりよしやあしやをわきまふることあたはず、さやうにていつまでもたゞ、宗匠にのみゆだねもたれてあらんは、いふかひなきわざならずや、すべて近世風の歌人のごとく、何事も愚につたなき学びかたにては、生涯よき歌は出来るものにあらずと知べし、さて又はじめにいへる如く、歌をよむのみにあらず、ふるき集共をはじめて、歌書に見えたる万の事を、解キ明らむる学。
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うひ山ぶみ・第四十九段すべてみづから歌をもよみ、物がたりぶみなどをも常に見て、いにしへ人の、風雅のおもむきをしるは、歌まなびのためは、いふに及ばず、古の道を明らめしる学問にも、いみしくたすけとなるわざなりかし、
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うひ山ぶみ・注[ム]みづからも古風の歌をまなびてよむべしたててよめる人は、たゞ鎌倉ノ右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師ノ大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出来たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあそぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也、さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし、それにつきては、道のために学ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす、そもそも歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり、これ神代のはじめより然り、詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず、さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゞ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、
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うひ山ぶみ・第四十四段すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古への人のくはしき意、風雅のおもむきはしりがたし、
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