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玉勝間 / あがたゐのうしは古学の親なる事

からごころをきよくはなれて、もはら古、のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが縣居ノ大人よりぞはじまりける。此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌も唯だ古今集よりこなたにのみとどまりて、萬葉などは、唯だいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌の善き惡しきを思ひ、古き近きをわきまヘ又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりし事なるを、今はその古、言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をも詠み出で、古、ぶりの文などをさへ、書きうることとなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有りける。今の人は、唯だおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御蔭によらずと云ふこと無し。又古事記書紀などの、漢意にまどはされず、まづもはら古、言を明らめ、古、意によるべきことを、人みな知れるも、このうしの萬葉のをしへのみたまにぞ有りける。

新字:からごころをきよくはなれて、もはら古、のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが県居ノ大人よりぞはじまりける。此大人の学の、いまだおこらざりしほどの世の学問は、歌も唯だ古今集よりこなたにのみとどまりて、万葉などは、唯だいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌の善き悪しきを思ひ、古き近きをわきまヘ又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりし事なるを、今はその古、言をおのがものとして、万葉ぶりの歌をも詠み出で、古、ぶりの文などをさへ、書きうることとなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有りける。今の人は、唯だおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御蔭によらずと云ふこと無し。又古事記書紀などの、漢意にまどはされず、まづもはら古、言を明らめ、古、意によるべきことを、人みな知れるも、このうしの万葉のをしへのみたまにぞ有りける。

書き下し

からごころをきよく離れて、もはら古のこころ詞をたづぬるがくもんは、わが縣居の大人よりぞはじまりける。この大人の学の、いまだ興らざりしほどの世の学問は、歌もただ古今集よりこなたにのみとどまりて、万葉などは、ただいと物どおく、心も及ばぬ物として、さらにその歌の善き悪しきを思い、古き近きをわきまえ、又その詞を、今のおのが物としてつかう事などは、すべて思いも及ばざりし事なるを、今はその古言をおのがものとして、万葉ぶりの歌をも詠み出で、古ぶりの文などをさえ、書きうることとなれるは、もはらこの大人の教えのいさをにぞ有りける。今の人は、ただおのれみづから得たるごと思うめれど、みなこの大人の御蔭によらずと云うこと無し。また古事記・書紀などの、漢意にまどわされず、まづもはら古言を明らめ、古意によるべきことを、人みな知れるも、この大人の万葉の教えのみたまにぞ有りける。

現代語訳

漢意をきれいに離れて、ひたすら古の心と言葉を尋ねる学問は、わが賀茂真淵先生から始まった。この先生の学がまだ興らなかった頃の学問は、歌も古今集より後にとどまり、万葉集などはただ遠く、及びもつかないものとされ、その歌の善し悪しを考え、古い新しいを見分け、その言葉を今の自分のものとして使うことなど、思いも及ばなかった。それが今では、その古語を自分のものとして、万葉ぶりの歌を詠み、古風な文まで書けるようになった。これはひとえにこの先生の教えの功である。今の人はただ自分で得たかのように思っているが、みなこの先生のおかげによらないものはない。また古事記や日本書紀を、漢意に惑わされず、まず古語を明らかにし、古の心によるべきだと人がみな知っているのも、この先生の万葉の教えの賜物である。

解説

賀茂真淵を古学の親と呼んで、その功績を数え上げた一段である。宣長が具体的に挙げるのは二つ。万葉集を読めるものにしたこと、そして古事記・書紀を漢意によらず古語から読む方法を確立したことである。注目したいのは「今の人は、ただおのれみづから得たるごと思うめれど」の一句だ。方法が普及して当たり前になると、人はそれを自力で得たと思う。誰が道を開いたかは忘れられる。宣長はそこを名指しで押さえた。同じ玉勝間には、その真淵の説にも従わなかったと述べる一段もある。恩を認めることと、説をそのまま継ぐことは別だという構えである。

この章句が説くこと

県居の大人賀茂真淵古学のおやおのれみづから得たるごと思う学問

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