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玉勝間 / 十四の巻 又

つねの饌は、羹一つ、菜一つにて止へし、しなしな數多ければ、これかれにまぎれて、美き物ももはらならねば、さしもめでたくおぼえず。但し他の饗饌は數すくなくてはさうさうしき心地す。あまり多きも、中中めでたからずおぼゆ。數多くつもりて後後は、うるさくあきたくなるなり。ただ羹は品をかへて、數おほきもよろし。さて昔はすべて、あつものと云ひしを、近き世には、始の一つを、汁と云ひ、次に出すを、二の汁と云ひてその餘をば、汁とは云はず。吸物と云ひて、汁とすひ物とは、別なる如し。又いはゆる菜をば、昔はあはせと云へり。清少納言枕册子などに見ゆ。又伊勢神宮の書に、まはりと有るは、伊勢の言歟。此國の今も山里人など、まはりと云ふ所あり。

新字:つねの饌は、羹一つ、菜一つにて止へし、しなしな数多ければ、これかれにまぎれて、美き物ももはらならねば、さしもめでたくおぼえず。但し他の饗饌は数すくなくてはさうさうしき心地す。あまり多きも、中中めでたからずおぼゆ。数多くつもりて後後は、うるさくあきたくなるなり。ただ羹は品をかへて、数おほきもよろし。さて昔はすべて、あつものと云ひしを、近き世には、始の一つを、汁と云ひ、次に出すを、二の汁と云ひてその余をば、汁とは云はず。吸物と云ひて、汁とすひ物とは、別なる如し。又いはゆる菜をば、昔はあはせと云へり。清少納言枕册子などに見ゆ。又伊勢神宮の書に、まはりと有るは、伊勢の言歟。此国の今も山里人など、まはりと云ふ所あり。

書き下し

つねの饌は、羹一つ、菜一つにて止むべし、しなじな数多ければ、これかれにまぎれて、美き物ももはらならねば、さしもめでたくおぼえず。但し他の饗饌は数すくなくてはさうざうしき心地す。あまり多きも、なかなかめでたからずおぼゆ。数多くつもりて後々は、うるさくあきたくなるなり。ただ羹は品をかえて、数おおきもよろし。さて昔はすべて、あつものと云いしを、近き世には、始めの一つを、汁と云い、次に出すを、二の汁と云いてその余をば、汁とは云わず。吸物と云いて、汁とすい物とは、別なる如し。又いわゆる菜をば、昔はあわせと云えり。清少納言枕冊子などに見ゆ。又伊勢神宮の書に、まわりと有るは、伊勢の言か。この国の今も山里人など、まわりと云う所あり。

現代語訳

ふだんの食事は、汁物一つ、おかず一つで止めるべきである。品数が多いと、あれこれに紛れて、おいしい物も一つに味わえないので、それほどおいしいとも思わない。ただし客をもてなす膳は、数が少なくては物足りない気がする。あまり多いのも、かえってよくないと思う。数が多く重なって後のほうは、わずらわしく飽きてくるのである。ただ汁物は品を変えて数が多いのもよい。さて昔はすべて「あつもの」と言ったのを、近ごろは初めの一つを「汁」と言い、次に出すのを「二の汁」と言って、そのほかは汁とは言わない。「吸物」と言って、汁と吸物とは別のもののようである。またいわゆる「菜(おかず)」を、昔は「あはせ」と言った。清少納言の『枕草子』などに見える。また伊勢神宮の書物に「まはり」とあるのは、伊勢の言葉であろうか。この国(伊勢)では今も山里の人などが「まはり」と言う所がある。

解説

宣長自身の食事の好みと、食に関わる言葉の移り変わりを述べた段である。ふだんの食事は一汁一菜がよく、品数が多いと味が紛れてかえっておいしくないと言う。客へのもてなしは少なすぎると寂しいが多すぎても飽きる、ただ汁物は品を変えて多いのもよい、という細やかな感想に、宣長の生活の感覚がうかがえる。後半では言葉の話に移り、昔は汁物をすべて「あつもの」と言ったが、今は一の汁、二の汁、そして吸物と呼び分けていること、おかずを昔は「あはせ」と言ったこと、伊勢神宮の書物に見える「まはり」が今も伊勢の山里で使われていることを記す。松坂に住む宣長にとって、伊勢の方言に古い言葉が残っていることは、古語研究の貴重な手がかりであった。

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